大脇(尾脇)準一郎 78歳誕生祝賀会

2021年8月28日(土)正午~午後4時

場所:野村家公館

敬愛する食口同志の皆様

先日は欠陥だらけの小生ごとき者を忘れず、78歳の誕生祝いに駆けつけてくださり、ありがとうございました。また思いがけない真心こもるお祝いを戴き恐縮至極に存じあげます。

小生が誰かの誕生日に呼ばれてもこのような高価なお祝いの品を持ってはせ参じることが出来ないので、お祝いの席に参加をすることを躊躇せざるを得ない自分であることを再認識しました。ただご参加くださった皆様の背後に天の父母様、真のお父様を始め、善霊界の励まし「もう一山越えよ!」とのメッセージを痛感しました。お忙しい中、急なお知らせであったにも関わりませず、はせ参じくださりありがとうございました。おjひとり一人にお礼を書きたいと思うといくら時間があっても足りませんので、今回は冨美平準喜(としき)君27歳(筑波大大学院2年生)に焦点を当てて、お礼の返信としたいと思います。というのは次女千恵子夫婦のもともとの企画が2世への伝統の相続がテーマであったからです。

 当日は20年ごとの4つのサイクルの内1つ目の原理やお父様との出会いの前途中までしかお話しできませんでした。ただ準喜さんが筑波大学を基盤として2つも会社を立ち上げ頑張っているのでこの足場を築いた福田信之先生のご苦労の一端をお伝えいたしました。

補足の意味でいくつかの情報をリンクさせていただきます。 ぜひ筑波大学の伝統を相続し 東大・京大に負けない世界A級大学として発展させてください!

 1)1994.11.27 福田信之先生昇華

 2)早成会(原理研とは何かを学ぶ資料のひとつとして)

3)大脇自叙伝(内

小生が早稲田に入ったのは、今思えば天の御心であったかも知れないと思います。そして天は宗教活動だけでなく、学業と両立して学ぶように願っていたかも知れません。19647月、熊本開拓に行くべきか悩みました。その時、美植ママは「午前中勉強して午後伝道したら?」とアドバイスくださり、勉強道具を持って出発しました。しかし、車中、中途半端なことが出来ない性分で「では20日間は徹底して伝道し、後半の20日は徹底して伝道しよう!」と思い、行きの汽車賃だけを持ってどこへ泊るかも知れない状況なので、九州開拓のメンバーが集まった福岡教会に勉強道具を預けました。20日目の夜、福岡教会に行って熊本駅に着いたのは朝方4時過ぎでした。市内電車が出るのは午前6時、それまで熊本城のk公園ベンチで転寝をしていたら、わずか1時間ばかりの間に勉強道具一式、大学の学生証もすべて入っていました。

小生はその時、「今は勉強する時ではなく、伝道する時だ!」と判断し、後半20日も伝道しました。その後早稲田に帰ってからも、伝道のために行きました。それが天の御心であったかどうか、未だにわかりません。そのような、のるかそるかの決断の時が何度もありました。

 19673月彼岸の日、 小生が秋葉原で見習いを終え星電社社長(神戸・三宮)に挨拶し米子を経て早朝鳥取につきました。途中大山に登り祈祷しようとの思いもうかんできましたがそのまま帰ってしまいましょた。母(尾脇電機会長)と叔父(母の弟尾脇電機社長と今後のビジョンについて熱く話しました。その後午前10時鳥取地区長が社長を訪ねて社長はストーブをたきました。午後4時ごろ日曜でシャッターをしまい切ったたまストーブを炊き小学校1年と5年生の子供がそのストーブで火遊びを燃える油紙をゴミ箱に捨てそのごみ箱からあっというまに火が広がり2人の子供は窒息死しました。そのような思いがけない犠牲があって小生はその7年後アカデミーの使命を授かることになりますが再び上京して統一運動の本流に合流しました。しかしその決断が神様のみこころであったかどうか未だわかりません。2人の甥の犠牲があってこそ、お父様のみ旨を担うことが出来たのかもしれません。書けばとめどもなく続きますがこの辺にしてとりあえず先日の写真をお送りいたします。    

ありがとうございました。

令和3830日       尾脇準一郎  拝