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「神の国を取り戻す王の王」 我が主、わが父母(14)  PFFファイル印刷用
 
大脇夫妻の証詞を読んで(感想)      『世界家庭』5月号


アボジとの思い出 (私にとってのメシア)  
   2016.3.1記
       
ワード形式 

1、真理のメシア

 若き時代、お父様は求道され、人生と宇宙の問題を自分の問題、人類の課題として取組まれ、
聖書に秘められた神の摂理の奥義を解明された。
 小生は、16歳の春、死の淵から生かされ、何の為に生かされているのか求道4年、「命には
願いがある、願いの目的はこの地上には無い。生命の価値意識はその主体として絶対的主体
を要求する。その主体、大生命の本体が神ではないか?」と思っていた。内的求道の過程で、
宇宙の法則の背後に生命、さらには慈悲の情が感じられる。神は愛なのか? 生存競争の自
然界、戦争で血塗られた歴史、阿鼻叫喚の世間のどこに神の愛があるのか、反問する小生に、
1963年9月11日(20歳)の早朝、「親の愛の一念、これが私である」と神様は愛の御手で地球を
抱き、全身を神霊で満たして教えてくださった。(注1)
 しかし、これを証する真理が無い。生涯かけても「誰かが見出さなければ」と悲壮な決意をして
いた頃である。この入神現象を体験して3か月後、原理と出会った。講義は、真に十戒の映画
の場面を見ているかのような情景であった。4畳半の講義室が霊の火で燃え、黒板の文字と語
る講師の言葉が光の渦となって心の板に刺さる。そのたびに心の琴線が喜びで震えた。まさに
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の心境であった。心霊が高まり、足が地につかず、
雲の上を歩いているような天にも昇る心地であった。小生はこのあふれる喜びを抑えがたく、
良心の発露から家族、親友、学友に気違いのごとく宣べ伝えた。原理を聞いた第1印象は小生
がやらねばならぬと思っていたことを「すでにやり遂げた方が居た」という喜びと安堵感であった。

 1965年1月末、21年ぶりに来日されたお父様は聖日の後、昼食会に各大学原理研究会委員
長を呼ばれた。その席で「なぜ、電気工学科を選ばれたのか?」「宇宙人について」「霊界のテレ
ビについて」質問をし、「求道中窓ガラス一杯の大きな目玉が現れ、こころの奥底まで凍るような
寒気がしたこと」などをご報告したことを思い起す。この50数年、ノーベル賞を受賞した学者を始
め、多くの碩学とお会いしたが、原理に対する確信は揺らぐどころか益々確信が深まるばかりで
ある。原理を解かれただけでもアボジは再臨のメシアであるという確信は今も変わりない。


2、愛のメシア

 原理を聞いた当初、皆、結婚など考えもしなかった。アボジが祝福をしてあげようと1967年
来日された時も「まだまだ未完成ですから」と当時の先輩達は断り、日本での最初の祝福は
2年間延期された。1970年777双の祝福があった。いつも大事な摂理の時、内的心情が整わ
ず、天の恩寵を十分に受けることのできなかった悔いの多い歩みであった。
 この時も小生は勝共連合事務総局次長、WACL大会総企画室長、天勝塾塾長で多忙なこと
もあったが、祝福のことが気になって仕事が手につかない女性も多く、「WACL大会を成功しさえ
すれば天が配慮してくださる」との本部の通達であった。 大会が終わり、関釜連絡船で韓国に
渡り、列車でソウルまで行った。お父様は駅まで出迎えてくださり、後にも先にもない本格的な
家庭の伝統を立てる修練会が始まった。 「血統転換」のみ言に心情の波長を合わせた食口は、
全身の細胞が甦るような感動をもって受講していた。小生は、後々なって、単なる物語るとして
しか思っていなかった聖書の物語が赤い糸のように血統転換の神さなの復帰摂理歴史てあった
こと解明されただけでもアボジは再臨のメシアであると痛感することとなった。それはヨセフがエジ
プト王の夢解きをできたのは幼い頃から神の恩寵を受けていたからであったように、文鮮明先生
も、特別な恩寵を受けていらっしゃったからだと判断せざるを得ない。

 家内と一緒にお会いした時、また一人でお会いした折にも「あんたは奥さんに負けるよ!手が
出るであろう!」と言われることがしばしばであった。それがいつも突然なのでどう答えたものかと
返答に窮しているうちに話が次に移ることが多かった。

 1973年暮れ、777双の夫人達が米国摂理に動員された。3年間米国に歩んだ家内はすっかり
米国が気に入り、小生を米国に来るようお父様に懇願した。「そんなこと言うなら離婚させるぞ!」
とアボジに言われ、家内はしぶしぶ諦めるのだが、其の折、傍にいらっしゃった崔元福先生が
「夫は針、妻は糸、どちらが無くても布は織れないのですよ!」と助け船をだしてくださった。
其の折アボジからいただいたお小遣いで家内は記念にと真珠のネックレスを買った。
米国の遊園地で子供の土産にと、韓国のデパートでスーツを、済州島の空港で
ネクタイを選んでくださった。「お父さんは忙しいからお母様と一緒に行きなさい」と
言われ、Mercyデパートでスーツを買ってくださった。そのおり真のお母様は「尾脇さんは渉外で
良く人に会うのでこれが良い」と小生ならとても選びそうにない、明るい白色の多少ピンクがかた
スーツを選んででくださった。「先生はみんなとの思い出を沢山作って上げているのだよ!」と
おっしゃるアボジは、「このように食口を、人類を愛するのだよ!」と教えてくださっているように
思われた。 いつも「心情が最も大切」なことを教えてくださったお父様、お話を聞いているといつ
の間にか目に見えるかのような心情的世界に引き込まれてしまう。そしてその心情圏に酔い、
時間を忘れることが多い。天国とはそのような世界だと思う。

 1978年8月のことである。イギリスの教会でお父さまにお会いした。イランでの世界大学総長
会議に日本の40大学の総長・学長をご案内しての帰国の途上であった。報告をするとアボジは
ことのほか喜ばれ、天から窓が開けたかのように溢れるみ言葉を下さった。
 其の折、「人間は「情」だよ!」「情は心が青いと書く。心はいつも新鮮でなければならない。
刺激が無ければ、何も無いと同じ、情は刺激を受けると鏡のように静かな湖に風が吹くと
波が立つように、生まれるのが願いである。
「知」という字を見なさい。口に矢と書く。口から出た言葉が的に届くように筋道を立てるのが
知、どのようにすればもっと良くなるかいろいろ考えるから人類の文明は発達した。情で喜ん
でばかりいては発展が無い。また考えているだけでも駄目だ。
「意」という字を見なさい!思い立つというように、要するに決心して行くことだよ!人生は簡単だ!
 喜びながら、よく考え、決心して行くことである」とおっしゃった。

 メシアとは何か?真理のメシア、愛のメシアを信じている信徒は多い。しかし小生はメシアの
真骨頂は、王の王にあるということをアボジの聖和後しみじみと痛感する。

 信仰基台と実体基台を復帰するのは何のためか?メシアと出会うためである。メシアとは
何か?メシアは、きわめて自然な父母であり、創造本然の人間である。真理を探して神と出
会い、神への縦的信仰を立てたアベルがカインと1つとなり堕落性を脱ぐ横的基台を立てて、
サタンの不可侵権・聖域を作る。このメイアための基台、聖域集団をまとめて、この世の神
(サタン)との闘い、これを自然屈服させ天国復帰の創建者、革命家がメシアである。 メイア
の為の基台を蕩減復帰するのは、本来は堕落人間の為すべき責任分担であってメイアの
使命ではない。しかし人類歴史の悲劇は、メシアの基台を準備したアベルがことごとくメシアに
躓き、メシアが堕落人間の立場まで下りて行ってメイアの為の基台まで蕩減復帰しければなら
ない二重の重荷を担わざるを得なかったことである。
 人類歴史を顧みれば、信仰を立てたり、人のために筑紫ことは出来ても、、自分より幼い
アベルに従うことは如何に難しいことであるかが判る。 栄光の道でsるべき筈の文鮮明先生
の生涯も三分の2以上は、苦難の道であった。

 1963年12月、」原理に触れ翌年4月、早稲田に原理研究会を創立し、学生運動、開拓伝道に
いそしんだ小生が、国を目指し世界復帰を目指される王の王としてのメイアにお会いするには、
厳しい蕩減条件があった。

 1966年3月、小生は実家の電機会社と当時山陰一と言われた書店ロゴスと鳥取教会の三位
一体で山陰復帰の特別摂理があった。まだうすら寒い彼岸の朝、聖日にもかかわらず地区長
が尾脇電機の本社に見えた。社長の叔父はストーブを焚いて応対した。当日は会社が休みな
ので店のシャッターを締め切ったままで、ストーブは焚かれたままであった。その日は、小生が
秋葉原で修業し、神戸の星電社の社長らに励まされて鳥取へ帰省した日でもあった。今後の
マスタープランを広げて社長である母と叔父(専務)に説明をした後、母は実家に帰り、小生は
午後4時頃、鳥取銀行の頭取に会うために、外出した。頭取にお見せする資料が一枚足りない
ことに気が付き、本社に帰ってみると、机が燃えていた。小学校1年生と5年生の従弟がゴミ箱
の油紙を拾ってストーブで火遊びをして机に燃え広がっていた。2人は洗面器で火を消そうと
水道の蛇口と燃え盛るストーブとの間を必死で往復していた。 ・・・・。小生が来たのも見ると、
2人は2階へ駆け上がり、叔父(彼らの父・叔父・専務)が下りてきてた。叔父は小生よりももっと
慌てていた。おじにすれば、15年前、義兄(姉:社長の夫)が突然、交通事故死したので、大阪
の一流会社を辞めて、姉を助けるために、家族4人が会社に2階に住みながら、日夜支えてき
た本社ビルが今燃えている。叔父が動転したのも無理もない。店のシャターを開け、陳列ケース
を運び出したが、後で考えてみれば、人命第1の価値観が確立していなかったのですべて裏
目に出てしまった。危機管理の重要性を痛感した。
 火はたちまちに2階にも燃え広がり、気が付いたときには子供たちは2階にいるという。
屋根伝いに2階に上がり窓を破ると黒煙が噴き出ってきた。「俊ちゃん!」と呼ぶと「準ちゃん!」
と声がする。あの時飛び込んで助けるべきではなかったか?小生はいまだにわからない 。
その後7年間小生はサタンの霊に侵入されてなかなか抜けなかった。いろんな試練を乗り越え、
ようやく、サタンを分別できたのは1973年夏、語学研修でハワイ大へ行った折であった。
 30歳の誕生日、小生は徹夜祈祷をハワイの砂浜でし、天の前に誓いを立てた。翌年3月、
アカデミーを担当の天命を授かることになる。天との間、あるいは人間関係に一点でも隙間が
あればサタンに侵入される。それを抜け切ることは至難の業であった。


3、王の王としてメシア

  神様の究極的な願いは神の国復帰である、イエス様もそのために一心不乱に努力された。
マタイ6:33)。 アボジの願いもこの一点にあった。基督教界が反対しなければ、国連を基盤に
再臨理想を実現するために若き情熱と知力を投入できてであろうに、その大半を牢獄と迫害の
中で費やされたことは、人類的損失である。

 文先生が60歳のご還暦の時、身をよじらせて、慟哭して未だに天の前に一国も復帰できない
でいる自らを懺悔された。あの現場にいた者たちはその衝撃に襟を正さざるを得なかった。
 ワシントン大会の天宙的勝利により縦的蕩減条件を立てたので、地獄に陥る人類を一日でも
早く救うためには、どのような横的手段(方便)を使っても天は許すだろう」ともおっしゃり、経済
的手段を重視された。

 1974年、9月、124名で発足したPWPAも1978年には2000人を超す教授集団となっていた。
教授世界へ奉仕するのは財政的、人的のみならず霊的エネルギーの消耗も激しかった。
 小生が霊的に落ち込んだ状況をご覧になってアボジは「人が何と言おうと弁明は必要
ありません。要するに責任感と実績だよ!アボジの実績の前には神もサタンも頭を下げる。」と
おっしゃった。昼の太陽のようなアボジと共に夜の月のようにアボジの周辺でお祈りをされて
いる祈祷集団のハルモニ達にもお世話になった。

 そんな折、天から頂いた励ましのメッセージは、今も私の励みになっている。
 「数多くの食口がいる中で、おまえは不平をこぼさず、黙々とやってきた。学者を扱うのは簡単
ではない。おまえしかいない。国を復帰するには学者がなくしてできない。おまえか倒れそうになる
とき、私はどんなに泣いたことか。どうか、身体を治し、自信を持って天から勝利の冠を得るよう
頑張ってもらいたい」。
 家内に対しては、「この嫁は口が多い。自分の気分のまま、言動すれば、今までの幸福も一日
で失ってしまう。お前は男のようでいつもこの男の女々しい態度が気に入らない。しかしこの男は
誰にも負けない頭を持ち、誓ったことは必ずやりとげ、責任を果たす男だ。この男は、疲れたとき、
じっとお前を見ては慰めを得て、努力している。お前の男性的な良き性相を夫に上げ、夫が天
からご褒美を頂くとき、お前も同参できるのだ。」 
 この世においては、わが教団内部においてさえ、誤解や抽象が徘徊し、時には耐えがたい試練
を受けることが多いが、天があり、霊界があることが、唯一の慰めであり、希望の光である。罪は
焼き滅ぼされ、真実は、いつかは輝く時が来る。全ての人々、神様と歴史的人類の“恨”が解怨
される日の早からんことを祈念する。」誰が見ていなくても「天はすべてをご存知なのだ」と視野が
立体的に広がり慰められた。(注1)

 英知を結集して「10年後のナショナルゴールプロジェクト」に挑戦したいた時のことである。
その中間報告をアボジに申し上げると即座に「日本の国際化とはキリスト教化である」と思い
がけない返事をいただいた。かつてご来日当初、国家の枠から出ようとしない日本人に
「富士山を逆さにしなければならない」と説教されたことがあったが、その後の島嶼国家連合の
創設言い、雑居文明圏からキリスト教文明圏に引き開けようと苦労された。(注)

 ハドソン川の釣りから帰られたアボジは、私の到着を待っていましたと言わんばかりに、まさに
堰を切ったかように話しだされた。「教授たちを如何に命の道に短縮して導くか!これが最も重要
だ!」アボジの長年に渡る人材と経済の投入の本音に触れた感じがした。
 松下正寿先生の「救世主現る!」の本をお届けした時である。翌朝アボジは「先生、昨夜徹夜
して読んだよ!」と羽織れぼたち目をすながらおしゃった。 那須聖先生の「牢獄のメシア」もそう
であったがアボジは「自分がどのように知識人に評価されているか、」尋常ならざる関心を寄せて
いらっしゃることに気が付いた。

 80年代前後、アボジは陸から海にその関心の範囲を広げられた。世界の指導者層の食口を
順次アメリカに呼んでは海洋訓練をされた。ボストンでのことであった。静けさ漂う海に突然マグ
ロがかかった。アボジの船の目の前であった。アボジの「モリを打て!」との声が聞こえる。その
瞬間を逃してしまった。慌てた同僚はロープを船のデッキに巻き付けたらツナは太いロープを引
きちぎって逃げてしまった。夜の反省会、皆の感想を聞き終えるとアボジは「逃がした時の悔しさ、
生涯忘れない思い出になるであろう、悔しさをバネに頑張るだね。」と慰労してくださった。そこには
漁師であったペトロに「人を網する漁師にしてあげよう!」のイエスの言葉に通じる海洋訓練が
あった。アボジの船に乗ったことが何度かかった。アボジは小生を向き合いながら、海の詩的な
世界を語られた。朝もやのかかった海、午後の海はクジラが塩を吹く。「あの抜けるように青い空は
神様の慰安の色なのだ。もし空が真っ赤であたったら人類の大半は気違いになってしまうだろう!」
赤は迫る色、大きいものを小さく見せるのだ。」とも言われた。また朴大統領が腹心のKCIA長官に
暗殺された折であり、話が政治情勢にも及び「イエスは奇跡に頼りすぎたから十字架に追いこまれ
た」とか鬼気迫る怖いお話をされた。

 アカデミーを担当していた当初その報告は定期的に各部門の担当者のレポート、出版物、資料、
写真集ともにお届けした。アボジの傍で秘書役さている先生が、「お父様は尾脇さん報告が届くと
何をさておいてもそれを読めとおっしゃり、読んで差し上げげまたよ! いつも、じっとお聴きなって、
大変喜んでいらっしゃいましたよ。」とお伺いし、侍義の時代、少しでも忠孝を尽くせたことを感謝
しています。報告書は筆書きであったのでそのコピーは散在してしまったがそのうちのいくつか母が
書庫に保存しておいてくれていたので、後世への遺物として、暇を見てそれを打ち込んでいます。

 松山貢三さん(83歳)が信仰の支えにしているみ言葉がある。「6千年の歴史は失敗の繰り返しを
して来たが、その原因は、全て『カインとアベルが一つになれなかった』ことにある。 カインとアベルが
一つになると神が働き、カインとアベルが分裂すると、サタンが進入する。
 もし、カインとアペルがお互いに少しでも不信感を持ち、わだかまりを持って心が離れると、
「その僅かな隙間にサタンが侵入し、相手を否定し、批判し、対立し、分裂して、その結果、カインも
アベルも、両方ともサタンに奪われてしまう。 だから、カインとアベルは協力して一つにならなくては
いけない。」「カインとアベルが一つになるには、先ず、どちらが正しいか?どちらが間違っているか?
と言うことを後回しにする事が大事だ。
 お互いに、自分達の方が正しいと主張して善悪の問題を先行すると一つになれない。だから、
そのことは後回しにして、先ず、兄弟として愛し合うことが一番大切なことであり、愛すれば心が
通じる。心が通じれば神様を中心として良く話し合える。良く話し合えば理解し合って一つになれる。」
 このみ言を小生も骨身に沁みて痛感する。小生の失敗談をお話する。

 1985年夏、国を動かすには国家的アベルとカインが1つになるならなくてはならない。アカデミーを
担当していた当時、小生の足りなささもあって11年務めたアカデミーを一時離れ渡米することに
なった長年お世話になった先生方が歓送会を開いてくださり、全国から激励のメッセージを頂いた。
渡米の機上、激励のメッセージを読んでいると、どこからこんなに涙があふれ出るのか機上中,
涙が止まらない。小生はただ夢中で奉仕をしただけであるのに、「こんにも小生のことを心にかけて
くださっていたのか」と感動の涙があふれて来たのであった。(注2)
 イーストガーデンでアボジにご挨拶をすると「その歓送会に寄せられた激励文を読め」とおっしゃる
ので読み始めた。何十人もメッセージなので途中ちらっと見るとアボジは腕組みをした手を頭にやり
ながらじっと聞いていらっしゃる。多少飛ばして、読み終わった後、アボジは一言、、「感慨無量だろう
ね!」とおっしゃった。

 訪米後、ドクター石(ソク)の下、米国カープの指導者の一人してシカゴリージョンを担当、その1年後
の1986年8月末、イーストガーデンに集まった幹部集会で、文先生はそこに居あわえた4人(李戴錫、
崔容碩、金奉泰、尾脇)に統一神学校へ行くように命令された。まさに「晴天の霹靂」とはここことだと
思った。 「資格を取っておく将来役立つよ!」とおっしゃった。4年間の米国滞在、今思えば、「帰国の
ご挨拶をして帰るべきであった。」と悔やまれてならない。早稲田を中退したため、3年分の単位をUTS
に通いながら他の大学へも通ったり、試験を受けねばならなかった。UTSのDivinityコースに加え、この
時しかないと博士論文にも挑戦したため、大幅に日本への帰国が遅れたのであっせってしまった結果
の失敗で。あった。

 1989年9月、日本に帰ると3ヶ月後、アボジは再びアカデミーに人事された。これも突然であった。
小生の帰りを待てくださっていた先生方と大いに働いた、1990年4月モスクワでの言論人会議には磯村
NHK主幹を始め、読売日経、朝日、産経、共同通信等の論説委員クラスが参加した。(注3)
 プライバシーに関わるので詳細は差し控えるが、アボジが期待されたのはアカデミー、国家的カイン
との一体化であった。小生の配慮の足りなさもあってサタンのつけ入る隙をあたえてしまい、アボジの願い
を果たすことが出来なかった。小生を通しての期待が大きいほどまた、怒りも激しかった。その後韓国、
米国、南米、いずこにあってもアボジは小生の顔を見るなり雷が落ちた。ある時は「お前は乞食になる
よ!」と審判のことばが下った。その後、小生は乞食のような境遇にあってもアボジの苦難の生涯から
見れば何でもない」思っている。只、この世に天的使命をもって生まれている同時代の義人・聖人人を
私のたりなさにより生かしてあげれられないのが残念でならない。また、家内を始め子供達や親族に、
多大な負担をかけたことを申し訳なく思っている。

 1999年8月1日、南米ナベレキホテルに在られたアボジから国家メシア召集の命が下った。あまりにも
急であったのでその時駆けつけることができたのはわずか8名であった。「お父様とお母様を入れて11名
だね!」と寂しそうに言われた。その後からが大変であった!
「あんたたちは、いつまで先生を舐めているのか?今度南米に来なかった者は国家メシアのタイトルを
剥奪する!」と大変な剣幕であった。その後続々国家メシアは到着し、40日国家メシア修練会は予定より
1ヶ月間も延長となった。 カインの不信仰で3次に渡って失敗に終わりつつある再臨復帰摂理を一代で
完全蕩減するべく、2001年から2012年、120年を12年に圧縮し、アボジは一生一代の「大博打」を打とうと
悲壮な決意を固めつつあられる頃で、師の心を知らない、いつまでたってもふがいない弟子たちに対して
雷が落ちたのであった。(注)

 アボジは何千人も居る中でも一番後ろの隅っこにいる食口を見出し、そこへ近づき話しかけられることが
しばしばあった。2006年2月の御聖誕祭、小生は、訓読会がどこで行われているか、わからず、遅れて
入ったので一番後ろの方に居た。 アボジは壇上からアボジ道路を造らせ、まさに脱兎のごとく小生の下に
駆け寄られた。何事かと近く似た仲間が後で聞いてきたが、次のようなお話であった。、「お前は生きていた
のか?先生はあんたが顔を見せないので、とっくに霊界に行ってしまったのかと思っていたよ!」と嬉しそう
に小生の体を抱きしめ、頬をなぜ乍らおっしゃた。今、思えば、その後もっと顔を出すべきであったと反省
している。アボジが命がけで国家復帰に賭けていらった12年間、アボジに背を向けるかのごとく、全く外に
向けて、「為に生きること」に専念してしまい、アボジの天宙史を賭けた歴史的聖戦にお力に慣れなかった
ことを心より懺悔します。そこが小生の信仰の足りなさだったとお父様にお会いした50数年前の当初から、
いつも大切な時を失い、悔いることばかりです。「親の愛の一念、これが私だよ!」と神様の愛を体験した
1963年9月入神現象を思ひ起こされた。

  青春時代、求道し神様と出会い、そして文鮮明先生と出会った。その後の50数年は文先生の厳しい
薫陶の下、主にならいて歩んだ人生だった。文先生は教育者であると同時に、私たちを平和へ導く大義
に生きる方でもあった。晩年は、人類の福地、王道楽土建設のため南米や海洋の開拓者であった。残念ながら、
2012年9月、92歳、志半ばで他界された。
 先日、5つの大学を創設した89歳のシンクタンク会長とお会いする機会があった。其の折、ゼロ戦線
戦闘機製造責任者であったお父さんの「表裏の無い人間となるように」との言葉を守って世の中に苦言を
呈してきたことを話された。そして「自分はあの世に行ったら一番会いたいのは父親である”「お父さん
、お父さんがおっしゃった言いつけを守って立派に生きてきましたよ!”と言いたい。」とおっしゃった。今、
現代文明が見失いつつある命の絆それは父子関係であることを痛感し感動した。まず自分を立て、親と
対等であろうとする西欧文明の欠陥が露呈されている今日、本当の親孝行とはなにか、生涯身も持って
父なる神様に侍り、忠孝の精神を見せてくださったアボジに習い、生涯現役で救国救世の先頭に
立ちたいと思っている。

2016年3月3日 
                  大脇 準一郎 拝

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 準一郎の追補:
 アボジはよく日本の教会幹部に見学をさせられることがあった。馬山(蔚山?)の自動車部品組み立て工場
でのことである。
工作機械が立ちならぶ自動車工場を見学させ、その日の夜、食事が終わった後、日本の幹部に工場見学の
感想を聞かれた。小生の一人手前は櫻井設雄兄であった。いつのように櫻井兄は心情的な報告であったが、
アボジは笑いながら「小学生の感想文にもありません。」とおっしゃった。小生は「機械は正直である。」と答え
たら黙っていらっしゃった。アボジはNCR、機械の頭脳ロボットを見てほしかったことが後でわかった。

 アボジは長時間にわたるお仕事の合間に体をほぐすために、米国ではビリアードや卓球をされた。
ビリアードは到底相手になりませんが、卓球ではお相手をしたことがある。お父様に一度だけ勝ったことがある。
それは韓国の青坡洞の旧教会でのこと。その日午前中からアボジは祝福の件で午前中からお話をさいていた。
日本の幹部たちはアボジの韓国の教会員へのお話を終わるまで教会の裏庭にある卓球台で試合をやっていた。
夕方ごろ、アボジは卓球台の所にお出でになり、卓球を軽く始められた。我々は午前中から練習をやっており、
リズムに乗っていたので、たまたま勝ったわけである。アボジは「もう一度」と言われ、今度は負けてしまった。
独特のフォームから良く球をコントロールされるのには感心した。
(写真はお母様、池先生、金栄輝先生の姿も見える。)

 アボジの教会幹部に対する批評は手厳しい。イーストガーデンでの出来事、先輩に対して「白豚、イタチ、
尼僧のようだ」と言われていた。小生は台風が来て必死に木にしがみ付いている猿と批評された。
また漢南洞では「笑っても口元はシニカルで心から笑いなさい」と注意された。また小生の行儀が余り良くない
のを時折注意されたが、「お父さんが早く亡くなったので、お母さんは忙しくて教えられなかったのであろう」と
同情もしてくださった。

 国家復帰に完全投入されたアボジの晩年、バハマ復帰の使命を果たすことができなった。小生は懺悔の
意味でアボジの2周忌に懺悔録を書いた。(http://mnet.upf.cc/Bahamas/missionary.html)

家内のぜひ付け加えたかったこと:
 1973年冬、オハイオ州で周藤先生を団長にIOWCの伝道をしていた折である。Ms. 沈徐姓(Hsu Dung Bok)
を伝道した。1954年教会草創期、お姉さんと2人で入教した彼女は、その後米国へ留学。卒業後、中国人と
結婚してオハイオに住んでいらっしゃった。36家庭に当然選ばれるような古いメンバーで、アボニムに沈さんの
ことをお話をすると大変喜ばれた。Ms. Hsuはその後、中国人の夫と離婚、36家庭の池先生のお世話で80歳の
黒人牧師と再婚、ボストンに住んでいらっしゃる。御嬢さんはブリッジポート大の経理を担当、夫は佐々木さん
である。
 1976年秋、ワシントン大会が終わった後のことである。イーストガーデンでリーダーの中心とした朝食会が
行われていた。日本に帰りたくないとの私の声を聴かれて、主人ともどもイーストガーデンに呼ばれた。
私は霊の子たちのことを考え、「アメリカに残りたい」との思いを押させることができず、涙を流していた。
それをご覧になった真のお母様は涙を拭くようにと、自分のナプキンを渡してくださった。「そんなにアメリカ
に残りたいなら離婚させるぞ!」とまでアボジは言われた。傍にいらっしゃった崔元福先生が「夫は針、
妻は糸ですよ。両方が協力してこそ布も縫えるのですよ!」と優しく助け舟をだしてくださった。お父様も
「良い子が生まれるよ!」と励ましてくださり、「ハワイでも寄って帰りなさい」とお小遣いをくださった。
後に私は真珠のネックレスを記念に買った。日本に帰国したのは、合同結婚式から丸7年目の10月の
ことであった。家庭を持つのが最も遅いカップルの1つであった。

 光言社のインタビューを受け、『世界家庭』2016年5月号を見た家内から抗議を受けた。家内によれば
「我が家にとって最も大差詰なことは、米国から帰るときに、お父様が”良い子が生まれるよ!”とおしゃった
ことだにのなぜ、そのことを載せなかったのか?」。その抗議を聞いて、家庭の誇りを守ろうとする妻の素晴
らしさを改めて痛感した。夫婦げんかの焦点はいつも家庭的価値をないがしろにする小生へのジャブであった。
遠心力で宇宙の彼方に消えてしまいそうな小生をこの地球星に留まらせる求心力、家庭にぬくもりを与えて
くれたのは家内であった。
 「尾脇は、奥さんに負けるよ!」と言われるアボジの突然の言葉に、いつも即答できなかった小生であった
が、「負けて勝つ。打たれて復帰する」神様の先方こそアボジが納得される回答ではなかったかおと回想する
この頃です。


大脇準一郎の半生“:為に生きた人生”

初めに;

本文は1998年11月29日、自叙伝を書くようにとのアボジの指示で修練会中に書いた
ものである。項目はアボジの指定。パラグアイ・オリンポにて筆手書きしたものを、2001年
11月21日にPC入力、2014年9月18日加筆したものです。十分な校正をする時間がありま
せんので、舌足らずの点はお詫びしたします。

Ⅰ.父母と親族に対する事項

1)父は第二次大戦中、海軍技術研究所(広島県呉市)に技官として勤務。戦艦
「大和」の電気計画の一人であった。結核を患い、療養のため田舎へ帰省し、
終戦を迎える。戦後いち早く、電気技師の腕を生かし、電気店、精密機械修理工
場を設立。200軒余りの鳥取県私都村は、日本全国で初めて、村民全家庭にラジ
オを備えた“日本一の文化村”として、シャープ電気より、表彰されNHKでも
報道されました。これを達成できたのは、お金の無い人には、父が自分で中古品
を組み立ててあげたからであった。しかしながら、父は、1951年交通事故死、
享年41歳の若さであった。母は当時33歳、残された子供は長男である小生8
歳、それに5歳、3歳、胎中5ヶ月の妹4人であった。「女は弱けれど母は強し」
と言われるように、電気のことは何もわからない母であったが、親族、従業員達
の自己犠牲的協力を得て、事業は、亡き父の創業以来、60年以上、今も続いて
いる。

2)親族や従業員の期待を担って育った小生であったが、1963年12月、原理に
触れ、学業を放棄、献身、小生に属する会社の株も無断で売り払い、献金してし
まったため、親族のショックは大変なものであった。
 母は、周囲からの批判を浴びながらも、東京へ上京して、西川先生ご夫妻に会
い、周藤先生から講義を聞き、小生の献身を認めてくれた。母は「子供は神から
の授かりもの、神様に返すべきである。自分の子供だと思うから欲が出るのだ。
息子が生きてくれているだけで有り難い」と言うのがそのときの母の悟りであっ
た。  1966年~67年、山陰一の書店ロゴス(山本社長がクリスチャン、元、
鳥取県会議所会頭、早稲田大学商学部卒)が統一教会へ入教され、尾脇電機と統
一教会を中心に三位一体となって8階建ての文化センターを建て、山陰に一気に
文化旋風を起こそうという大計画があった。ところが、親族や教会幹部、鳥取銀
行頭取らと総合計画を審議した日の午後、叔父・叔母の子供達が火遊びをし、尾
脇電機本社焼失、二人の従兄弟が亡くなり、この一大計画も崩れてしまった。余
談であるが、文化センター建設を委託する予定であった山本社長の次男、浩三氏
(丹下健三首弟子)は、その後、世界各国の大統領府、ホテル、ショピングセン
ターを建設し、活躍されている。

3)神山裕子夫人、井上恭子夫人等、初期のメンバーは小生の自宅を開拓伝道所と
し、鳥取教会を創設、今日まで鳥取教会の母として、母は食口の面倒を見てくれ
た。1982年6000双のとき、独身祝福を受け、この30数年間、親族達の
反対を浴びながらも、一貫して支援してくれた母であった。しかし、1996年
11月、南米摂理のため、私達夫婦ともども、二人の子供を母に預けて海外宣教
に出かけた。80歳の母には大変重荷であったようで、リューマチが急速に進行
し、翌年の2月に倒れ、以後、小生の二人の妹が朝5時と夜10時におしめを取
り替え、介護施設で回復に努めている。

4)母は2005年5月昇華したが、母に追悼文を寄せてくれた前川稔教区長(1980年
代)によれば、生前、母は松下電器本社と掛け合い、日本1000台、米国2000台の
ポータブルビデオレコーダーを格安で手に入れ、鳥取銀行に尾脇電機の担保で長
期のクレジットを発行してもらい、教会の伝道摂理に大きく貢献したことを証し
てくれている。(http://www.upf.cc/~owaki777/HahaShoka/Hahashoka.html

5)父方は武士、その前は公家、天皇家南朝系の出と言われている。母方先祖は北
朝系、大化の改新の中臣鎌足(藤原氏)に到る、今日の神奈川県、岡山県(備前)
の守護職(大名)であったが、1568年7月7日、玉松城(岡山県御津郡金川
町)が落城し、三男、元重は家臣と共に現在の鳥取に逃れ、原野を開拓、代々、
村の大庄屋を努めてきた家系である。父方は秀吉に、母方は、秀吉以前、宇喜多
直家(その子秀家は秀吉の重臣)に滅ぼされた。

6)母方は岡山県御津郡御津町にある玉松城城主、松田元輝の3男、元重(13歳)
は落城(1568年7月7日)に伴い家臣に守られ因幡の波多野氏を頼り因幡へ落ち
のびる。鎌倉末から戦国時代は備前岡山の守護職
祖は、相模国足柄郡の松田氏。先祖は藤原鎌足に至る。

7)家内は沖縄県、松堂家の出身である。先祖は中国、馬氏、那覇市安謝の海岸に
先祖が漂流し、毎年記念行事を行うとのこと。子孫は琉球王朝に臣下として使え
たが、沖縄は最近に到るまで受難の歴史の連続であった。

Ⅱ.動機
 入教の動機は、“神様を論理的、科学的、実証的に証する真理を得た”ことである。
 小生は16歳の時、精神的、肉体的に行き詰まり、死に直面した。その折、母
の買ってくれた生長の家の本を読んだ。その時、『感謝』という言葉が光を放っ
て心に飛び込んで来た。懺悔の涙とともに、2時間ほどで病気は、神霊的に癒さ
れた。その時「人間は生きているのではなく、生かされているのだ」という悟り
を得、「生かしてくださっている生命の親なる神の願いは何か?」4年間、真剣
に求道した。「生命には願いがあり、願いの究極は法を超えた愛である」ことま
では悟れた。しかし「本当に神は愛なのか?」「なぜ人間に自由を与えたのか?」
これらの疑問に神は、統一教会入教3ヶ月前、入神現象をもって答えてくださっ
た。

心霊が天界に引き上げられ、地球がソフトボールの大きさに見えた。肉心の意識
と霊的意識と二重の感覚があった。自分の手は神の手との感覚、霊眼で見ると空
気がきらきらと輝く、無限の大海原に意識だけはある。ソフトボール大の地球を
この“神の手”が抱いている。 手から銀白色の光の糸が雨のように降り注ぐ。
その光は地球を貫き、なんとも喩えようもない、聖妙な霊が、頭上から降りてく
る。胸のあたりに来るとき、「可愛い、可愛い!親の愛の一念、これが私である。
私は、お前が私を疑い、不信した過去を責めようとは思わない。そのような低い
次元を超えた“親の愛の一念”、これが私である。」との声が伝わってきた。朝
のお勤めを指導した道主より、「良い体験をした。それは基督教で、入神現象と
いうのだ。」とのコメントを頂いたのを覚えている。それは、神道系の教団であ
るのに“基督教”という意外な言葉を聞いたからである。道主は、戦前、朝鮮半
島の山の中で修行にていた道人から、心身統一法を学んだという。

神の愛を霊的に実感したとしても、これだけでは他人を伝道することができない。
「神様を信じないものは、地獄へ行く」という既成教会の教えは、小生の良心的
に納得できないものであった。「もし、神様がいらっしゃるとすれば、きっと科
学的、論理的にも、万民が納得できる道を願っていらっしゃるに違いない。」と
直感し、「誰かが、その使命を果たすべきだ」と悲壮な覚悟をした。 神は、小
生の思いかけなかった早稲田大学理工学部電気工学科へ導かれた。原理と出会っ
たのは、1963年12月11日、東京、目白駅頭で4人の青年達が40日路傍
伝道をしていた最後の日、最後なので予定より1時間延ばして辻説法をしていた
夜、7時30分のであった。3日後、教会本部で原理を受講したとき、講義室は霊
的火で燃え、語る講師の言葉と黒板の文字が一体となり、白金色の光を発して私
の心の中に矢が刺さるように飛び込んだ。「初めに言葉があった。この言葉に光
があった。……そして受肉されて、人となった」(ヨハネ伝1章のみ言、モーセ
がシナイ山で十戒を受けた情景を連想させる出来ごとで、み言が立体的認識とし
て心の板に受肉された体験であった。私の本心は喜びの心霊にあふれ、さながら
雲の上を歩いているかのごとき、夢心地の毎日であった。み言を「出発のための
摂理」として、伝道へ向かった。み言を聞いてからの1年半は、まさに気違いの
ごとく、伝道に投入し、この間多くの人々を導くことができた。

Ⅲ.主要活動事項

1)原理を聞いた当初、早稲田大学の一年生であった。1964年4月20日、
大浜総長、担任の高杉教授(クリスチャン)の激励を得て、大学内に原研を設置。
毎週の定例研究会、月例講演会、毎期の展示会、パンフレット、ポスター、看板、
授業前のスピーチ等あらゆる伝道手段を用いた。この間、早稲田から多くの統一
教会の中核的リーダーを輩出できたことは恵みであり、今回も8人のメンバーが
国家メシアとして頑張っており、その他、数十人の直接導いた霊の子女、数千人
の間接的に導いたかたが、世界の各地で、全国の片隅で頑張ってくれていること
がせめてもの慰めである。
熊本、岩手、山形、青森の夏期40日開拓伝道、大阪教会学生部長、岩手地区長、
鳥取教区長を経験。 なお、入教当時、小生は生長の家の求道者であったが、立
正佼成会のように大量に教団信徒を導けなかったが、谷口総裁に証しし、一部の
生長の家幹部を導いた。 ブラジルには240万の生長の家信徒がいると言われ
ているが、今後も宗教界に対する使命が残っているのかもしれない。

2)69年末、原研、超教派部から勝共連合に移動。
70年、WACLC(世界反共大会) の総企画室長、勝共教育部長、事務総局次長を
担当。72年、統一思想研究院開設と共に、李相軒先生の指導の下、統一思想の
理論的発展、講義案の作成に参画した。1974年9月28日、124名の教授を
結集し、世界平和教授アカデミーを日本に創設。勝共的思想性、国際性、社会性、
未来指向性、問題解決型指向の学際的な学術運動は、学界、大学界から賛同を得、
2000名の正会員、5000人の会友を得、日本を変える一大勢力となった。

 学界を基盤に経済界、政界、言論界、教育界等に賛同を得、70年代から80
年代にかけ、日本のオピニオン・リーダーとして、日本の国際化に貢献すること
ができたことは光栄である。特に自民党政府の首相、党三役に対する依託政策レ
ポートは10年間続き、防衛、教育、国際化への提言は政府をリードする政策と
して幾つか実行された。また、経済界との共同は、日本学際会議(科学技術庁、
民間企業研究機関)、「新しい文明を語る会」(東京丸の内界隈の会社重役1000
人)、(社)「大都市圏研究開発協会」(国土庁、地方自治体)等は、創立20
年後の今日も継続されている。この間、数多くの各界のリーダー、憂国の士とお
会いし、愛国ということを人格的に、また具体的政策、実践を通して学ぶ機会を
与えられたことは、感謝である。「木はその実でわかる」(マタイ7:20、12:33)
といわれるように、1人、1人がいかなる信仰・信条を持っていようともその結果、
実績を見て判断すべきであるという実践的な知恵を学んだ。

3)1980年代後半、米国CARP指導、UTS在学時代、在米日本人協会、ワシント
ン・インスチュート(政策研究)を手伝い、大使館、日系企業、在米日本人の全
米的人脈を築くことができた。「日系社会の為に米国で働いて欲しい」とベンジャ
ミン・フランクリン7代目、アーウイン・雪子女史から強く勧められたが、89年
秋、一旦、日本へ帰国した。
帰国後、一時再び、教授アカデミーを担当したが、その後、ワコム(コンピュー
ター)・セイロジャパン(工作機械)、ワンウェイ・プロダクション(衛星通信)
等、事業部門を担当、同時に国際企業文化研究所を創設。91年から、還故郷摂
理と共に、鳥取に‐U-ターン。鳥取教会への奉仕と共に、郷土に“自由自在の会”
(自治省主管)という民間ボランティア団体を発足させ、県議、市議、役場、青
年、企業、農業指導者等を中心として地域活性化のボランティア活動を展開。自
治省、県庁を仲介として、全国1万5千のボランティア団体と交流しながら、地
域に村づくり、町づくりの在り方を研究した。また鳥取県・鳥取市に、国際的人
材づくりのための国際大学“国際職業訓練学院”構想を提案したが、大學は2001
年4月、“鳥取環境大学”として発足。さらにまた、全国の農業者、農協組合長
らとの全国的有機農業ネットワークを手伝い、今後の農業のあり方、村づくりを
求めて、国内交流、イスラエルのキブツ、中国四川省西安市、モンゴールらとの
国際交流をした。

4)国家メシア、NGO,NPO活動(この項は後に記述の予定)

Ⅳ.神様と真の御父母様から受けた恩恵

1)教授アカデミー担当時代、慶煕大学、趙永植総長の依頼を受け、尹世元副総長
と共に、日本の大学総長を組織化、ボストン、テヘラン、コスタリカ、バンコッ
クと、大学総長のお世話をすることを通して100数大学の総長がアカデミーに
入会(天理大学、仏教大学、龍谷大学、駒沢大学等宗教団体バックの学長も入会)、
1978年、イランでの総長会議には40大学の総長・学長が参加された。
その帰り、総長たちとヨーロッパを巡回して帰国する途上、ロンドンに滞在され
ていた文先生にお会いすることができた。このとき、文先生はことの他お喜びで、
天から堰を切ったように、溢れるばかりのみ言葉を下さった。「人生とは“情”
で喜び、“知”で考えながら、思い立って(“意”)行くことである」と心の三
機能、知・情・意の字源を紐解きながら、人生を簡潔に説明してくださった。た
だその折、いただいた月刊「知識」、中曽根総理も愛読の書であったが、休刊に
なったことは胸の痛むところです。

2)黙々と学者に侍ることを通して、日本と世界のために、ひいては天のために尽
くしたいと勤めていた頃、身体の優れない小生の為に、韓国の先輩、霊能者の方
々が祈ってくださった。そんな折、天から頂いた励ましのメッセージは、今も私
の励みになっている。
「数多くの食口がいる中で、おまえは不平をこぼさず、黙々とやってきた。学者
を扱うのは簡単ではない。おまえしかいない。国を復帰するには学者がなくして
できない。おまえか倒れそうになるとき、私はどんなに泣いたことか。どうか、
身体を治し、自信を持って天から勝利の冠を得るよう頑張ってもらいたい」。家
内に対しては、「この嫁は口が多い。自分の気分のまま、言動すれば、今までの
幸福も一日で失ってしまう。お前は男のようでいつもこの男の女々しい態度が気
に入らない。しかしこの男は誰にも負けない頭を持ち、誓ったことは必ずやりと
げ、責任を果たす男だ。この男は、疲れたとき、じっとお前を見ては慰めを得て、
努力している。お前の男性的な良き性相を夫に上げ、夫が天からご褒美を頂くと
き、お前も同参できるのだ。」 この世においては、わが教団内部においてさえ、
誤解や抽象が徘徊し、時には耐えがたい試練を受けることが多いが、天があり、
霊界があることが、唯一の慰めであり、希望の光である。罪は焼き滅ぼされ、真
実は、いつかは輝く時が来る。全ての人々、神様と歴史的人類の“恨”が解怨さ
れる日の早からんことを祈念する。

3)1994年、韓鶴子総裁が、日本一小さな県、鳥取を巡回講演してくださった。
はるばる、岡山から車で4時間、野を越え、山を越え、鳥取へ訪れてくださった
のである。お母様は、車を降りられるなり、「貴方に会いにようやくここまでやっ
てきましたよ!」と第一声お声をかけてくださったときは、感激した。鳥取は
「ふるさと」の曲を作曲した岡野貞一(熱心なクリスチャン、芸大教授)の故郷
でもあるが、ご夫人は「鳥取は、ウエストバージニアのようだ!」とアボニムに
電話されていた。野津鳥取大学教授と私の手を握りながら、「お互いに協力して
神様に栄光をお返しするように!」とソロモンのような、祝福を頂き、光栄でし
た。

4)伝道優秀表彰 2008年7月15日、日本宣教50周年記念

Ⅴ.祝福と祝福生活の証

1)祝福(マッチング)は完全なる自己否定と分別からの出発であった。1963
年入教以来、きちがいの如く何十人も伝道し、学業を放棄し、所有権を返還し、
み旨に励んだつもりであったが、777の祝福のとき、功労者の列に小生の名は
なかった。小生よりももっと若く、入教歴の少ない人々が数多く功労者に選ばれ
ているのにどうして私が入ってないのか? 
その後、久保木会長にお聞きしたことがあったが「先祖の功労がなかったからだ
ろう?」と答えられた。何が功労なのか? 未だにこの問題は心で整理されてい
ない。祝福開場で「いっそのこと、日本に帰ろう!」と心の葛藤は激しかったが、
「皆、良いい人と出会いたい」と必死である。それなら私はそのようなことを忘
れて、「私が幸せにしてあげられる人を探そう」と思い直した。

 アボジが祝福をして喜ばれていること、実母も喜んでいるのを見て、父母を喜
ばせることが善であると思い、自分のための結婚でなく、まず相対のため、人類
のための結婚であるという自己否定、為に生きる精神に立てば問題解決の原点に
立つことができた。 ただ祝福での体験は、WACL(世界反共大会)が直前まであ
り、「大会の成功以外、一切祝福の事は考えては行けない」との阿部事務総長の
方針(久保木会長)であったので、当面の仕事に全力を傾注することが天のため
と思ったが、「天は心情の神であり、天が貴重視するものを貴重視し、関心を払
わなければならなかった。」と反省している。

2)家内はカイン的指向の心情の持ち主である。依存心が強い性なのか、沖縄人の
民族感情なのか、教会の幹部に対して、批判的言動が多い。家内のカイン的指向、
そのような不信仰な考え方もあるのかと驚かされる。少年時代の生長の家の超ア
ベル的思考(罪・悪はない)の影響が癖になっているのか、小生はとかく現実を
甘く考えがちである。この点、家内のカイン的指向、現実直視の姿勢も包摂する
ことが大切であると思っている。家内は沖縄で最初に復帰された食口で、心情の
豊かさ、伝道熱心な点は尊敬している。

3)長女、善美子(24)は、自ら高校を中退し、米国へ、米国高校を卒業後、訪韓、
延世大学で韓国語を習得し、鮮文大へ入学、今年から新設された大学院同時通訳
科に進学する予定である。1997年、11月、アルバニア国家担当、韓国、鄭元九氏
三男、有盛氏と結婚。長男、史行(22才)は1998年から、コネチカット州のブリッ
ジポート大學へ入学したが、今は休学し、2001年、4月より、バイトをしながら、
新宿の日本電子専門学校に通っている。次女、千恵子(21才)はクラシックバレ
エが好きで、高校からウクライナの留学、国立ハリコフ文化アカデミー3年生で
ある。 野村健二先生の四男、安弘氏と結婚。三女、仁美子(16才)は、1998年
から韓国の国民中学校学び、来春から韓国の高校に進学する予定である。幸い、
長男、長女、次女はアルバイトをしながら勉強してくれているので親として助かっ
ている。世俗の潮に流されることなく、天の伝統を相続することは容易ではない。
家庭に対しては、今までは、お恥ずかしい実績であり、理想家庭建設へ向けては、
これからが本番である。

4)近況 

Ⅵ.バハマでの主要活動と実績

1)1996年11月、家内ともども、ウルグアイ、南米特別修練会に参加。十二
月初頭、120名のメンバーと共にバハマに入国。滞在許可を1週間しかもらえ
ない姉妹もいたので、移民局側と交渉。出入国担当官ウォード氏は、当初、「統
一教会はカルトである」との否定的なイメージを持っていたが、ブッシュ、フォー
ド元大統領の参加したワシントンでの家庭連合創設のパンフレットを見せて説明
すると、担当官の態度は180度転換。以後、ビザを切り替えする人には、8ヶ
月の滞在許可をくれた。文化省事務局長アドレイ氏は総督主催のクリスマスパー
ティに120名全員招待するよう総督と掛け合ってくれ、見事に実現した。今も
そのパーティで出会ったVIPの人々がバハマの基盤となっている。

2)1997年1月末、牧師70人をはじめとする「家庭の価値セミナー」を開催
し、TVもインタビューして、放送する予定であったが、その当日、これに反対す
るエバンジュリストが「ナッソ・ガーディアン」に駆け込み、「ムーニーがバハ
マに上陸!」と批判的報道が為された。TVの放映は中止、移民局は慌てて、国外
退去を通告。記事の背景には、ナッソ・ガーディアンは、野党寄りで、統一教会
と関係の深い与党(FLM)のグレゴリー・ウイリアム議員をⅠヶ月後の総選挙で
落選させたいとの政治的陰謀があった。 野党(PLP)の攻撃材料になっている
統一教会を好ましく思わないイングラム首相も、2月の総選挙に勝つためにも、
統一グループ一時国外退去をプッシュした。

3)1997年9月、小生は再入国。11月、ワシントンでの第三回世界文化大典
に牧師2組、国会議員3名、言論界2名、労働界リーダー1名、大学界1名、女
性指導者2名、青年指導者2名、計15名のVIPを送ることができた。わずか3
ヶ月の間にリクルートできたのは奇跡としか考えられない。参加者の一人、ビショッ
プ・ミシュックは、自分の受け持つバハマのラジオ番組でワシントンの文化大典、
御父母様を堂々と証しした。矢のような攻撃があったが、その後もミッシック牧
師はひるまず、益々もえている。
 バハマからワシントンでの青年連合大会に参加したマッキントッシュ女史(元
ZNSアナウンサー、NGOリーダー)も4回に渡り「ナッソ・ガーディアン」に家庭
連合、青年連合の会議を紹介。過去の蕩減復帰のようであった。 移民局大臣、
首相に影響力のあるビショップ・ミッシックの力を借りて、ビザ問題を克服し、
滞在を延長することが出来た。

4)本年5月にはベルリンでの「宗教の自由に関する会議」にバハマ大学教授2人
を送ることができた。参加者の一人、キャザリン・ディモント教授が「ナッソ・
トリビューン」にベルリン会議のレポートを掲載している。 本年6月のニュー
ヨークの第4回世界文化大典には、4名の教授、1名の元上院議員(教授)を送
ることができ、われわれを支える33名の義人の人々となっている。 今後も統
一運動の国際的プロジェクト摂理と呼応して、バハマのVIPをリクルートし、基
盤を強化していくべきであると考える。バハマは基督教国家であるので、牧師の
地位が高く、基督教協議会(クリスチャン・カウンスル)の評議会の中核メンバー
4人が統一教会に賛同的なので、文先生を国家的にお迎えしようと彼らが動いて
いる。

5)本年6月、バハマ・ホリネス教会創立23周年祈念礼拝に招待され、来賓とし
てZNS会長に続き、小生も家庭連合として挨拶。TV、ラジオで生放送された。ま
た8月には政権政党であるFLMの創立6周年祈念礼拝に、外国人でただ一人、小
生が招待され、首相、各大臣出席の前で来賓として紹介された。この放送も生中
継であった。

6) バハマ再入国の道は、当初、上手く行くと思われた学生ビザ取得の方法では、
1年以上経過しても移民局を通過できなかった。それに代わって、女性連合が築
いていた人脈、与党に強いビショップ・ミシュックを通して移民局・労働大臣よ
り直接認可される道が開かれた。また、昨年、購入した舘、50万ドルの1割5
万ドルの登録料は、よく調べると公益団体は不用とわかり、家庭連合で登録した
今回は、登録料を支払わなくて済んだ。先回、無知のため、5万ドル払ってしまっ
たが、異国に置いては、自分勝手な憶測や独断を止めて、事実に即した冷静な対
応が大切であるとの教訓を得えた。このことは、NYやブラジル各国でも経験した
ことでもある。「失敗談ならいくらでもお話し出来る。国民の税金で高い授業料
を払って得た教訓なので今後の参考に生かしてもらいたい。」との、日本政府、
海外青年協力隊責任者の言葉を思い起こす。海外へ出たことのない人には判らな
い貴重な体験である。参考:「懺悔からの再出発」─バハマ宣教手記(1996~
2013年)─(http://www.upf.cc/~mnet/Bahamas/missionary.html

7)バハマは、世紀の大預言者、エドガー・ケーシーの予言の通り、かつての大帝
国、アトランティス大陸遺跡が海底から見つかったと話題になっている。世界1
の観光スポットに選ばれたこともある。先日は、史良子先生が、バハマでVIPセ
ミナーをされたとのこと、またバハマの霊能者(元上院議院)が、300余のバハ
マの島々に、世界各国村が出来る幻を見ている。世界平和への礎石として地政学
的に重要な拠点と思われます。


Ⅶ.今後の課題と展望

1)バハマでの活動は、今後、食口基盤の強化は緊急の課題である。長期的には、
国民所得一人あたり1万ドルを超すバハマは、同じカリブ地域の貧しいハイチを
助け、ジャマイカを誘って、アフリカ救援のボランティア活動を進めるよう、国
の方向付けをすべきであると思う。また、同リージョン内のキューバ・カストロ
以後のドラスティックな変化を予測し、キューバ再建のシナリオを今から描いて
おくべきであると思われる。

2)母国日本の沈滞が気になるところです。
①、今、日本に必要なのは、長期的文明史的展望に立った世界観の確立である。
戦後半世紀以上も過ぎた今でさえ、日本は“戦後が終わっていない”と言われている。
自虐的戦前の反省は、日本の青年達に自信と誇りを無くさせ、経済至上主義、天
下・国家より個人志向の傾向は、これに拍車をかけている。
問題の解決は、単なる過去への復古でもなく、欧化でもない。自己変革、変貌で
ある。今こそ日本は、明治以来の100年の国家主義から脱却し、国際社会へ貢
献する人材を養成することを目的として、グローバルな国家目標、教育目標へ大
転換を図るべきときであると思われる。 

②具体的行動としては、ボランティア活動(“為に生きる“)を国民運動化する。
こと。近年の教育改革で、”奉仕“が強調され、小・中学校で2週間、高校で
1ヶ月のボランティア学習期間が決定した。しかし、最も肝要なのは、大学で、
少なくとも半年~2年のボランティア期間を設けることである。

③日本の変革・世界への貢献の突破口として大学改革が近道と思われる。大学は、
その理念とする所が、ユニバーサルであり、グローバルである。人間の精神が
身体を土台としながらも、肉体から自由に精神世界へ雄飛するように、大学は
国家の枠の中にありながらもその研究・教育活動は普遍性がある。 上記に指
摘したように、日本国のための教育から、“世界地球村のための人材養成”と
いう教育目標に転換すべきである。国際協力も政府間レベルの国際協力から民
間レベル、大学間レベルの国際協力に移行することが実り多い成果を期待でき
る。このためには、各省庁の縄張り意識を克服する為、海外協力省の新設等の
構造改革が必要である。 

④日本人のコミュニケーション能力を高める語学革命は、上記の国家目標、教育
目的が糺されれば、おのずから実現される。英語、韓国語、スペイン語、中国語、
フランス語等を実践言語として教える。このため、全国都道府県に、米国や韓国を
始め、各国との大学間協力を進め、大量に異文化コミュニケーション能力を備えた
人材を養成することが肝要 である。 上記の内容を柱とした一大教育革命、国民
意識大改造が緊急と思われる。

3)ローマ・クラブは、人類の当面する文明的危機を訴え、21世紀へのビジョン
を提言するなど、世界に多くの影響を及ぼした。しかし残念ながら、創設者アウ
リオ・ペッチー氏の死後、その影響力が低下している。
彼らの結論は、「人類の教育と行動できるNGO組織屁の期待」であった。統一運
動も、我々のめざすビジョンを人類の目標として明確化し、その目標に向け、各
国、各団体、個人は何を為すべきかを提示すべきではなかろうか? このような
ビジョンを描ける団体として、PWPA/ICUSを活性化すること、このビジョンと呼
応する実践団体WANGO等が中核となって、民間NGOを誘い、リードすることが望ま
しい。宗教的教義(ドグマ)レベルから、思想、さらには政策レベルにまで普遍
化することにより、国家や一般大衆をも巻き込んだ国民運動、世界市民運動が展
開されることが望まれる。

①ブラジル、ジャルジンにおいては、パンタナール研究所(センター)を設立す
ることが望ましい。

②世界の魅力ある都市づくり、地域づくりの情報は、日本でも政府各機関(農水
産、建設、厚生、自治省等)や民間企業、シンクタンクに集まっている。小生も
日本のいくつかのモデル地域を視察したり、岐阜県の国際健康保養村構想
のプロジェクトを手伝ったりしたことあるが、コンセプトづくり、その展開、マスター
プランの設計が重要である。これらの機関の情報を活用することを薦めたい。

③1998年、長年続いたブラジル移民を日本政府は中止した。日本の政策は、海外
へ移住することよりは、外国人国内移住奨励、内需拡大にシフトしている。か
つてロケットの糸川英夫博士が、地球村管理の為に、中間管理職の経営者とし
て“5,000万人、日本人民族大移動論”を唱えた。最近では、元経済企画庁長官、
堺屋太一氏が日本の構造改革・救済の最後の手段として移民政策に触れている。
移民が本当に願われているとするならば、そのために必要な準備、広報企画が
必要と思われる。この問題は、地球的規模で人類全体の観点から検討されるべ
きである。

④日本240万人海外移民者の中で最大なのは、ブラジル130万人で、ブラジ
ルでは1998年、日系移民90年祭が行われた。これからの移民は、かつての農
業移民とは違って、これからの“趣味産業の時代”に合ったプレゼンテーショ
ンをすべきではないか? 例えば高度な科学技術の導入。環境にやさしい、太
陽エネルギー、風力の利用、衛星通信、インターネットによる都会と変わらな
い情報ネットワークの確立、水耕栽培、有機農業。芸術的個性的な町づくり
(景観)。ブラジルにユニークな農場がある。明治の開拓移民、弓場勇氏に導か
れた人々である。この弓場農場はクリスチャンとして共同農業生活を営みなが
ら、毎夜クラシックバレエを練習し、世界各地に巡回講演している。宗教性、
芸術性の高さも評価されるべきと思われる。この点、イスラエルの建国の母体
となったキブツは、食堂を中心とする村づくりに個性が生かされているが、文
化水準の高さでは、まだ一歩の感じがする。ただ、キブツには、常時世界各国
のボランティアが宿泊しており、このようなボランティア学習システムは、導
入すると良いと思われる。 とにかく、若者や女性、高齢者に魅力ある地域づ
くりを心掛けることが肝要である。

 小生の知人、江島優会長(日本4000社の人材バンク協会会長)は、ブラジルに
出稼ぎし、米国でヘッド・ハンティングを学んだ。帰国し、日本に始めてヘッド
・ハンティングを導入した人である。氏はオーストラリア、ニュージーランドに
数千組の年金生活者の移住をビジネス的に成功させている。移住地をビジネスと
して成り立たせることも考慮すべきであると思われる。


4)結びとして
1996年末、文先生が“一生一代の博打”とまで言われ、投入された南米特別
摂理も、私達の至らなさのため、ご期待にお答えできないでいる。リーダーの一
体化とメンバーの成長が勝利の鍵であろう。

20才で教会に入教し、35年間、天の前に生命がけで伝道した60年代、思想・学
術運動を通して国と世界に奉仕した70~80年代、バハマや南米に宣教・奉仕活動
をした90年代、最近は十分な働きを為しておりませんが、体力の衰える中、最後
の力を振り絞って、天の願いは何か、はっきり見定め、天のため、真に人のため
になる実績を残してこの世を去りたいと思う昨今です。特に天の聖業に参画すべ
き有為な人材が、空しく地上生活を終わって行くのが残念です。そのような有為
な人材を生かし、ともに世界平和・天国建設の偉業に参画し、創造理想復帰完成
を早めることができ、一日も早く、万民と天の“恨”を解放し、天と真のご父母
様をお慰めできればと念願している昨今です。

 天地人真の父母の御名によりて アーメン

 2001年11月21日 

NGO、南米・カリブ地域アドバイサーバハマ国担当・
           国際企業文化研究所所長 大脇 準一郎 

追伸:数十年来の友人達は、この12月26日から20数名、真夏のブラジル・パラグ
  アイへ奉仕に出かけます。彼等を心から祝福したい。残念ながら、小生の至
  らなさから小生の支援基盤が弱体で日本に留まり、明日に備えざるを得ませ
  ん。小生は、世界から尊敬される日本、新しい日本人の誇り、価値観創造に
  向けて完全投入していきたいと思っています。最近、歴史的聖賢達のメッセー
  ジを訓読するにつけ、入教当初のこと、気違いのごとく為に生きた青 春時
  代を思い起こし、聖賢達に負けない晩年、地上生活を有終の美をもって飾り
   たいと念願しているこの頃です。