「早稲田原理研時代と私」
 
       2015年1月25日 松濤町教会本部6階会議室 大西邦弘

                            
1965年 第一法学部二年

 その年の秋早稲田祭にて統一原理展示説明会に立ち寄ったとき、金成(旧姓宇
都宮)史江さん(尾脇準一郎さんの霊の子女)から説明をうけ伝道された。当時
あった早成寮ではなく白鳥ビルで、阿部知行さんから3日連続で講義をうけた。
大学講師だった野村健二先生と二人。12月特別修練会29期に参加し入会。小
林育三さん、大和田さんら。29期は後、幹部になった古田社長、江利川会長、
野村先生、久井俊一さん、吉岡征治さん福井勇夫さんら多数いる。  原理はよ
くわからなかった。同席だった野村先生が質問をよくするので堕落、終末、救世
主キリストなどに対する原理的見解と解釈がすばらしいと感想述べられたことで
最後まで受講できた。影の恩人になる。


1966年

 南平台全大原研宿舎に入寮。浦海会長時代。新潟春季開拓、郡山夏季40日開
拓に参加。札幌の北大復帰のためマイクロバスで北海道遠征伝道した。(このと
き早稲田の田浦碩哉(777双、聖和)さんが、東大赤澤(1800双聖和)さんの夫
人薫さんを北大の初穂として伝道)当時総務を担当していた時の思い出として、
統一思想研究院の大谷明史(当時東大大学院生)は南平台に入寮していた妹さん
を救出するため訪ねてきたとき私が初めて対応した。大谷さんがそのまま原理受
講を受け後に入会され、反対するものが改心されるという<復帰のモデルケース
>になった。


1967年

 早大原研は東京地区の主管下になり、戸山町と余丁町に二つのホームを構え、
宮下昭彦さんが、指導者となり、坪井利之委員長らは戸山町ホーム、私や藤井真
由美さんらは余丁町ホームに入った。65年66年当時学生伝道が急速に進捗し
教会活動の主力を形成していたがどこが主管するのか東京地区教会か全大原研か
議論が分かれ、結局、67年は地区主管になったからだ。その夏、御父母様の日
本巡回があり、原理解説に代わる原理講論による大修練会があり全食口が原理勉
強に集中した。

以後68年春まで半年間、新しい原理講論の習得のため猛勉強した。定期的に試
験もあり成績順が公表されるなど受験勉強なみに学習し、その講義演習など繰り
返し実力をつけた。私自身原理の神髄を初めて理解し、東京地区の原理試験1位
とか2位とか高得点を獲得して自信をつけ、霊的にも大きな復活がなされ信仰者
として再出発できたという意味でターニングポイント(大転換)だった。

 一方、この時期、早稲田原研が朝日新聞によって世を惑わす奇怪な運動として
紹介され教会迫害の口引きになった。それが<親泣かせ原理運動>だ。新聞、週
刊誌、テレビ、ラジオなどあらゆるマスコミからネガティブイメージによる悪宣
伝がなされた。また、この頃早稲田原研員の父母たちが「原理運動反対父母の会」
を結成し、世論からのバッシングをうけることになった。特に角田昭代さんや小
林育三さんの親は強硬に反対運動を展開した。負の側面でも早稲田が発祥地になっ
た。


原研委員長時代1968年4月

 坪井利之さん(第3代)に代わりわたしが原研委員長になった。
全大原研会長は小山田秀生氏が就任し、原研および学生部は東京地区主管から離
れ、全大原研本部の直接主管になり本部を中野区野方の早成寮に構え、早大原研
も同居することになった。
 <親泣かせ原理運動>という負のイメージを払拭し、統一原理の神髄をいかに伝
えるか、また、学生食口の内的信仰を成約のクリスチャンとして立て直すこと腐
心した。以後、原理運動という標語は使わず、原理研究会という標語を全面に立
てた活動になった。(朝日新聞の記事中、原理運動とはヘーゲルの唯心論とマル
クスレーニン主義の唯物論を止揚統一した宇宙根源たる神の二性性相云々のいう
難しい説明があっため)

 6月、ご父母様から日本原理研究会代表7名が韓国に招待されることになった。
当時日本の教会は草創期で韓国との交流はなく、韓国を訪ねる団体の訪問団はは
じめてだった。(個人としては松本ママ、石井元会長、久保木元会長のみ)
小山田秀生会長以下、太田洪量(京都大)大西邦弘(早稲田大)吉岡征治(中央大)
増田善彦(東京大)藤井真由美(早稲田大)野島登美子(高知大)の7名

 初めての公式訪韓団ということで久保木会長が力を入れられ、制服を新調し、
韓国語の学習、韓国国歌など事前に準備してくださり、本部では出発式典などを
執り行われた。
韓国へ出国は山口県下関港から漁船のような旅客船韓水丸で出発。韓国では釜山
から鉄道でソウルに向かったが大歓迎をうけ大げさに言えばVIP待遇(賓客扱い)
で韓国側の期待の大きさを感じた。当時、韓国では67年原理研究会が創設され、
大学界への基盤は脆弱で韓日学生交流を通じ将来の飛躍のきっかけを模索してい
たのではないか。学生訪韓団の活動は、主要大学で開催された韓日学生勝共大会
で弁論演説をすること、そして、大学教授や役所など機関訪問による渉外活動だっ
た。訪問都市はソウルのみならず光州、大邱、釜山など地方大学にも展開した。
当時の国際情勢は、65年日韓が平和条約の締結による国交回復したことで国論
が分かれ、北韓の南韓への工作が活発化していた情勢があったので時宜をえた日
韓交流活動だったと思う。

 滞在中、李相軒先生から直接<新しい共産主義批判と克服>つまり勝共講義を
うけた。日本では勝共開拓は69年夏から始まったが我々は68年に集中講義を
うけ、さらに、朝鮮大学校の前で勝共講義をするような活動指示もそのときうけ
た。(この情報を帰国前日本に伝わると江利川安江(中大)が即実践したので訪
韓メンバーは担当できなかった)この日韓学生交流は翌年69年からも継続され、
70年からは韓国から一般学生の訪日団が企画された。

 原理研究会がCARPといわれるようになったのはこの時からだった。COLEGEATE
 ASOCIATION FOR RESEACH OF PRINCIPLE 韓国の原理研究会から使われた。
帰国後日本の原理研究会の規約書や活動目標などを新たに作成し、教会の学生伝
道部とかや原理運動というイメージを払拭し宗教、学術、社会奉仕などを目標と
する原理研究会と定義した。勉学をせず活動のみに走っていた原研が、新入生を
対象にした勉学と活動を両立する新モデルケースを作るため出身大学の枠を超え、
目白に「成和学舎」が創設された。

 私個人にとってこの訪韓団の一員として1か月間もご父母様に直接侍り、毎日
活動し報告しある時は観光や映画鑑賞や食事など生活レベルで信仰生活を体験し
たことは<メシヤ観>の大きな転換になった。
 当時は<大先生>とお呼びしていた時代、御父母様の部屋に入ってみ言葉を聞
くとか、生活圏で親の心情事情を体験し喜怒哀楽を共にするというのは想像する
ことさえできなかった。メシアに出会うとは、ある時は祈祷生活やみ言葉学習や
探究による、生活や活動を共にして侍る体験はとてつもない大きな内的資産になっ
た。 余談.訪韓時の指示として、お父様の早稲田卒業証明書と頭髪用の加美乃
素を持参するようということもあった。


68年秋の早稲田祭

新しい原研のイメージのもとに従来の統一原理の展示説明会のみならず、あと二
つくらいの企画を展示したように思うが、詳細は覚えていない。<親泣かせ原理
運動>に代わる原理研究会のイメージをどう展開するかが大きな課題だったと思
う。


1969年夏 勝共運動の開拓

 夏季40日開拓伝道が継続される中、選抜された25-6名の青年学生が東京
の主要駅で勝共運動の開拓活動が展開された、これが日本における勝共運動の始
まりである。
 私は久井俊一さんとペアを組んで山手線池袋駅が任地だった。経済は自立、新
しい共産主義批判と克服の書籍などを販売して食事などの生活費に充てた。宿泊
は近くの公園 で野宿し定期的に松濤本部に帰宅できた。日課は朝から夜まで路
上の黒板を使い勝共講義をし、また議論するというもので、ある時は共産党員や
民青などと激しく議論することもあった。沢浦秀夫さん、阿部正寿さんの指導の
もと40日開拓が続行され、路程を終えると各自地方の国際勝共連合の事務局長
として赴任し、私は全大原研に戻り勝共活動を展開するようになった。女性では
訪韓した藤井真由美さん野島登美子さんも参加したように記憶する。

 早稲田の構内でも黒板講義で勝共講義をした。当時は、学生運動が盛り上がり、
大学が封鎖される事態にもなっていたとき、右派系また良識派の学生グループと
連合して大学正常化活動が主要な活動になっていった。河西徹夫さんらが中心に
なって良識派のサークル連合が組織され、左翼系の全学連に対抗するまでになっ
た。


69年末から70年

 私は全大原研副会長になり上崎道子(一心病院元院長)さんとともに小山田会
長を支え世界学生新聞の社説寄稿とか講演活動、そして、他大学原研活動や大学
正常化運動を支援し、特に青山学院大学などで支援活動した。
静岡大学で勝共講演をやっているとき左翼過激派が乱入し講演は中止に追い込ま
れた。乱入者は全員女性のストッキングをかぶり正体を隠していた。徳島大学で
講演するため徳島に行ったが不穏な動きがあって講演を事前に中止したこともあっ
た。

後記:
 50年前の証だけに一人でパソコンうちながら思い出や体験を書き綴ったが、
当時在籍したメンバーが教会を離反したり、出来事と時間や年代が一致せずまと
まった体験談としてまとめることができなかったことは残念だった。一緒によく
帯同伝道した大和田日照さん(弟、法生さん残る)、図師さん、原浩一郎さん、
水間さん(妹さん残る)ら。田浦さんは聖和された
(参考、http://www.upf.cc/~mnet/Confort/taura/tauramokuji.index.html)。
私は伝道が十分できず早大原研メンバーを生み出すことができなかったが、一人
特別修練会に参加した理工学部生は献身決意したものの親の大反対で復帰に至ら
なかったのは残念だった。地方や米国では少し伝道霊の子女を得た。

以上の証言は、歴史編纂部井口康雄部長の要請により、早稲田原研委員長時代の歴史を
証したものである。