777双祝福50周年記念に当たって

 喜寿(77歳)の所感           尾脇準一郎・栄子  2020年夏記

 

尾脇準一郎(通称:大脇)は、幼くして社会から注目され過ぎ、胃病を患い16歳の時、胃病を患い16歳の時、死と直面。子を思う母のひた向きな愛が天に通じたのか、聖霊の癒しの奇跡が起こり、わずか2時間で快癒。「何のために生かされているのか?」、4年間の求道の後、入神現象を体験、その3ヶ月後、原理と出会った。講義を受講し始めると、み言が光を放って心の板に受肉された。小生が「生涯を賭けてもやらなければならない!」と悲壮な決意をしていた「神様の愛を科学的・論理的・実証的に証した方」が既に居たことは衝撃的な感動とであり、肩の荷が下りたようにホッとした。

それは早稲田大学理工学部電気工学科1年生の時であった。小生が8歳の時、父は交通事故で突然亡くなった。享年41歳であった。工場や電機会社があり、30数人の社員が働いていた。当時、母は33歳、子供4人と莫大な借金を抱え、電機のことは何もわからない社長夫人であった。しかし、親族は自分達の仕事を辞めてまで、「お兄さん、お姉さんの子供が一人前になるまでは」と会社を手伝てくれた。ところが小生、こともあろうに学業を放棄して20歳で献身。非常に困難な中、「子供は神の子、自分の子供だと思うから悩むのだ。生きてくれているだけで有難い。」と母は献身を許し、親族の反対を押し切って背後から応援してくれた。晩年8年間はリュウマチとの闘病生活であったが、亡くなる寸前、見舞いに病院に行ったら「お前が願うから家が3軒も4軒も建つほど献金した。お前に残してやるもの病院に行ったら何もなくて済まない。只、ここまでやってきたのだから、最後までしっかり頑張りなさい!」とかえって小生の方が励まされた。

 

1974年4月から12年間、世界平和教授アカデミー創設に携わった。その間、先生方に侍り、先生方を天の摂理、世界平和のために生かそうと努めた。毎月、各部長の報告を含め精誠を込めてアカデミーの報告書を作成し、アボジにお届けした。アボジのお傍にいらっしゃった韓相吉先生が、「お父様は尾脇さんから報告書が届くのを楽しみにしておいでで報告書が届ききと何を読め!とおっしゃり読んで差し上げました。いつも大変喜んでいらっしゃいましたよ!」とおっしゃってくださいました。1985年米国人事となり、訪米の機上、先生方の寄せて下さった激励文を読んでいたらNYにつくまでの間、どこからこんなに涙が込み上げてくるのかと不思議なくらい涙が止まらなかった。イーストガーデンでアボジが「読みなさい!」とおっしゃるので読み上げました。長時間、じっと聴かれていたアボジは「感無量だろうね!」と一言おしゃって、席を立って2階へ上がって行かれた。アボジの指示を仰ぎながら、無心で奉仕したアカデミー時代、神様と真の御父母様、3000人の先生方とをつなぐ心の仲人になれたことは人生最大の宝である。

 

アボジは小生の顔を見るなり、「あんたは奥さんに負けるよ!」とよくおっしゃった。確かに家族を愛する力は到底家内に適わない。神様の夢の実現に完全投入していた小生は周囲のことに配慮が欠けがちであった。自分の体のことも考えず、毎朝、特攻機で出陣する戦士のような日々の中、今も元気で活動できることは一重に家内のお蔭だと思う。体のあちこちに不調和を感じるこの頃、小生の健康を心配し、真心を込めて体に合った食事をつくてくれる家内の有難味をしみじみ感じている。

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 尾脇栄子(旧姓:松堂憬子)は、沖縄の初穂で小宮山嘉一兄から伝道された。松堂厚喜、母カメの一男4女の末子として、誕生。父を戦争で失い、母は女手一つで私達を育てた。兄は大学まで行ったが、病弱な母の面倒を見るため、私は勉学の道を躊躇せざるを得なかった。本が好きで芸術、文化に深い関心のあった母は「これからの時代は学問が重要だから高校だけでも行きなさい」と勉学を進めてくれた。

 21歳の時、母の死を経験し、私は永遠の世界に関心を持ち始めた。聖書を読んでもわからなかったのに、原理を聞いて人間が堕落した罪人であること、歴史に同時性があり、歴史の中に神が生きていらっしゃることに感動した。沖縄の政治状は複雑で、「この原理は沖縄を救う真理ですか?」と断食をし、祈祷すると「その通りである!」との大音響の声を聴いた。その後、その声の主であるアボジとお会いすることなった。勝共理論を聞き、共産主義は人間性を失う道であり、勝共運動こそ祖国復帰の真の道であることを確信し、活動に専念。多くの政・財界人の共感、支援を受けた。

 

祝福の時、「結婚することはまた罪を重ねることではないか?」と思い悩んだ。その時、阿部知行先生が「神様の解放のためだ」と言われ、理論的にはわかっても心情的にはよくわからなかった。祝福直前の水沢里の祝福修練会でアボジが「何の為に結婚するのか?」と問いかけられたが、アボジに満足のゆく回答をした者は一人もいなかった。その時、アボジは「まず、人類解放のためだ。」と言われ、「神様のためは2番目、自分のためは3番目である。」とおっしゃった。子供が苦しんでいれば、神様はもっと苦しい。神様の親の心情を理解できた。

 

1973年から76年まで3年間は米国での宣教活動であった。霊の子達が修練会に参加しているのでベリータウンへ行った折、アボジが台所の裏口から出てこられた。「30歳も過ぎたら女性は日本に帰って家庭を持たないとね!」おっしゃった。私は霊の子達の面倒を見ないといけないと思い、「アメリカに居たいです。」お答えしたら、「尾脇はどっから来たか?」と聞かれた。その後、周藤先生の指導の下、ミネソタの教会で奉仕した。「日本へ帰りたくない」という私の声がアボジの耳に入り、ベルベディアに呼ばれた。食卓で涙を流している私にオモニムはそっとナプキンを下さった。アボジはそんなに言い張るなら「離婚させるぞ!」ともおっしゃり、崔元福先生は「夫は針、妻は糸、二つそろって布も縫えるのですよ!」と助け舟を出してくださった。アメリカを発つとき、アボジはお小遣いをくださり、「良い子が産まれるよ!」と祝福の言葉を下さった。

 

子を持って親の気持ちが分かかり、孫を見て神様はこんなにも子供がかわいいのかと神様の心情がよく分かった。親として子供に愛でもって接すること、家庭を基盤とした神様の四大心情圏が体恤できることを実感しています。

 1男3女を授かり、アボジのみお言通り、みんな4人とも本当によい子達です。特に末子の仁美子はまさに天からの授かった恵みの子です。胞状奇胎(ぶどう子病)に罹り、「子供たちを育てるために手術してでも生きなくては」と決心して居た折、一心祈祷院の辛玉淳ハルモニが「あなた方は天に大きな功績を積んだので、もう一人子供を授かります。それが見えます。」と予言された。その後、地の理を通して3女は誕生しました。皆、自分のことより常に親のことを想い、兄弟は兄弟同士思いやり、こころ配ばりを絶やしません。当初は、4人とも20歳前後で御父母様のマッチング祝福を受けました。何もしてやれない不甲斐ない親でしたので、子供たちは、バイトをしたり、奨学金を頂いたりして勉強しました。娘達3人は、勉強熱心で大学院まで学び、それぞれ、政治・社会学、芸術学、心理学・医療の専門家です。小生が継がなかった家業を息子は「お爺ちゃんの会社をやる」と臨終の祖母に約束し、2019年の2月から社長としてと頑張っています。鳥取、東京、ロスアンジェルス、キエフと場所は異なりますが皆、社会人とてしっかり頑張っています。これも一重に神様と皆様の恩愛のお蔭と感謝しています。