「霊的に導かれて」
                  尾脇 準一郎

●宗教を求めた青春

 小生は中学2年のとき、画期的な発明に近いことをして、毎日新聞の全面に、
冒険王と漫画王の雑誌に載ったり、NHKでも放送されたりもしました。全国から
ファン・レターが来て、神童と騒がれました。ところが、世の中の視線に押しつ
ぶされ、人前で話が出来なくなりました。16歳の時には、ついに胃腸をやられ、
生死の境を行き交う限界状況に陥りました。この窮地を救ってくれたのは、母の
愛でした。「自分は生きているのではなく、生かされているのだ」との観の180
度の転換は、内的求道の世界へと目覚めました。何のために生かされているのか?
何がみ旨かを神に求めて行けばいくほど、自分の良心が研ぎ澄まされて、普通の
人が感じないような問題に付いても敏感に良心が反応するようになっていました。

 19歳の時、私はある宗教団体の心霊指導をするお婆さんから話を聞いており
ます時、自分の父に対する感謝ということを教えられたのです。今までは父が居
なかったが故に、どこかに寂しい思いを持っていましたけれども、たとい父は早
逝したとしても、経済的基盤を固めてくれていたから、今、自分はこのように学
校に行ったりできるのだということを悟らされ、申し訳ない気持と、心から霊
界の父に対する感謝の念で涙をもって、経文を読んだのです。すると途中から我
ならざる声、まさに一念3千世界へ響き渡るような威厳のある朗々とした声に変
わり、経文の文字が白金色の光を放って心に飛び込んで来たのです。それまでは、
後、何分とか雑念がわいていて来ていたのですが、このときは、経文の背後の意
味がすっぽりと心に入って来た衝撃を受けたのです。 

限界で神と出会う
 神様の存在に関しては、16歳のとき、絶対否定できない限界状況において感
じたわけですが、そういう根拠を今になって考えてみます時、「自分自身は生き
ている。生きているものは、必ず動かなければならない。動くには方向を決めな
ければ動けない。ということは、自分は何か生命を押し出そうとするけれど、何
を目的として動こうとするのかということが問題になってくるわけです。方向を
定めるには目的を定めなければならない。ではいったい何を目的として生きるの
か」という問題は、現象界に於けるお金とか知恵とか名誉とかを目標にはならな
いことは、生命的実感で分ります。

 「生命自体は、存在することより、より良い目的を捜し、より良い目的より、
これしかないという唯一、絶対の、生命自体の求める絶対的な価値の主体なるも
のを求めていかなければならない。それこそ、人間生命の価値意識の主体として
の神である。 もし、そういう存在が無いとするなら、生命の実感と合わない」。
“我生きる故に、神あり”という実存的状況の中での自分の存在が、神の存在と
ピッタリ合ったわけです。その過程では、いろいろなサタンの不信仰な惑わしな
どありましたが、限界ギリギリの所まで来た時、私は信仰で悪霊の惑わしを押し
のけてきたのです。

●釈迦が現れて
 このようにして年月が経つうちに、「真理は情的なものである」ということを
だんだん感じてくるようになりました。 大学に入って、毎朝30分走って行っ
て、神道系の団体へ通っていました。そこに集まっている人と言えば、お婆さん
とか、青年が来ていると思えば、ちょっと頭が足りない、何か病気を治すために
集まっているような人達で、もの静かな集まりでした。その集まりには何ヶ月間
か参加していました。

 そこで1時間祈ると完全に体が霊化されて、身体があるのかないのか解らない
と言う実感を何度も味わったのです。あまりにも霊的になると現実生活支障を来
すので困ったこともありました。しかし、何よりも神霊に満たされるというか、
それが気持ち良いので、その生活を続けていました。

 ある朝(1963年9月11日頃)、同じように祈っていたのですが、その日は、急
に釈迦の80歳までの生涯が走馬灯のように、サーッと幻に現れたのです。内的
心情が釈迦の生涯をいとおしく思った瞬間、自分の心霊が急に高められ、肉体か
ら霊的意識が引かれていくようでした。 そして、ものすごいスピードで、アレ
アレと言う間に霊的に高められ、肉体が芥子粒のように小さく見えました。不思
議な実感なので肉体を触ってみると肉体はあるのですが、霊的意識はより高いと
ころに引き上げられているのです。回りを恐る恐る見回すと、パーッとした光の
世界で、表現すれば空気が銀白色にキラキラ輝いているのです。「無限」という
直感、光が無限に広がっていることが感じられるのです。

 そのとき、地球の幻が見えました。ブルーと白のソフトボールくらいの大きさ
で、オーストラリア当たりが赤く見えました。それを自分の手(神の手と感じら
れる)が支えているわけです。支えている手から白金色の糸のような光がさんさ
んと降り注ぎ、地球を貫いていました。自らの頭の天辺からスーッと何とも言え
ない聖なる、尊い、神霊が降りてきて、体内を通過・浸透しているのがわかるの
です。そして胸の中に“かわいい、かわいい”という心情がこみ上げてきて、
「今までおまえは私を疑って来た。そういうお前を責めようと思わない。私は。
そういう疑いの次元を超えた、?親の愛の一念“、これが私である」という響き
が心に伝わってくるのです。

 どのくらいの時間が経ったかわかりませんが、周りの人々は、お祈りを終わっ
たようなので、肉体的意識に帰って目を開いて見ると、あまりにもまばゆい銀白
色が目に入って来るので、しばらく目を閉じました。“山川草木悉皆成仏”境地、
万物の命が白金色に光り輝き、ゆらゆらと揺らいで見えたのです。

●神とはなんだろう

 そのような体験の中で、私は“み旨とは何か?”を追及していきました。外的
科学とか政治体制とかいうもので、人類に貢献するのではなく、より精神的なも
のであることを知り、人と人との心を結ぶ“心の仲人”のような人がいなければ、
人類に幸福はやってこないということを感じるようになっていました。果たして
「神は愛なのであろうか?」と疑問を感じていたのです。「何故、人間に自由を
与えたのか」と。自由というものは人間にとってあまりにも大きすぎる自由であっ
て、どう生きて良いか解らない。自由の重荷に押し潰されてしまう。「果たして
自由を与えた神は愛なのだろうか」と反発の心もあったのです。

 けれども、神の愛を神霊的に実感したときに、本当に申し訳無かったと涙が流
れて煕来ました。 私の神との出会いは、最初は母に対する悔い改めを通して聖
霊を受けて、自分の病気が治ったことでした。2番目の体験は、父に対しての悔
い改めを通して真理を実感したこと。そして、3番目の出会いは、道主の指導に
より、今述べた霊的体験を通じて神の愛を実感したことです。

み言を神霊的に実感
 それから三ヶ月後、原理と出会いました。原理を聞いたときには、モーセがシ
ナイ山において石板を受けるとき、神の言葉が光の渦巻きとなって、石板に字が
書かれる場面がありましたが、ちょうどそのように、講師の語る言葉と黒板の文
字が一体となって、銀白色の渦を放って心に矢のように刺さるわけです。それは
私の“心の石板”に神のみ言が書き刻まれるように、神霊的に実感したのです。
 “心の琴線に触れる”という言葉がありますが、心霊がみ言を聞くたびに感動
して震えるわけです。このようにして、私はみ言を頭で理解したというよりは、
心霊的に実感したので、み言が正しいかどうかということを考える必要はなかっ
たのですが、理性的にも納得しました。 今までの求道のあらゆる知識、宇宙科
学、素粒子論、進化論、超心理学、文学等々、知識の断片が有機的に結ばれ、1
つの思想体系として構築されていくのを実感しました。

かわいそうな神様

 こういうような路程を通じても、み言の路程を歩んでみても、神の認識という
ことは、神に心情的に接することができるかどうかが、神に近づく生活方法では
ないかと思うわけです。先程、幻に釈迦の一生涯が浮かんできたことを証しまし
たが、宗教団体の集まりに来て、神様の前に額ずいている人は、おばあさんとか
頭のちょっとおかしい青年……いわば人間の屑のような片端者しか神の前に額づ
けない、一方、五体健全な人間は、自分の欲望のままに動いていることを思うと
き、本当に“神様はかわいそうな方だ」と感じました。しかしながら、そういう
形であっても、何千年と言う歴史過程を通じて神様を慕って、形式的にでも宗教
という形を通して神様を奉ってきたということは、本当に嬉しく思われたのです。
そして、どんな足りないものであったとしても、素直にあるがままに、そういう
気持ちを表現して神の前に額づいていることが、あまりにも尊く思われたのです。

 そういう心情が高まって先程の幻を見ているときに、さらに引き上げられるよ
うに心霊的に高まって霊的体験をさせられたのでありますが、やはり、かわいそ
うな神様の立場に同情する心情基準に立っているときに、それが相対基準を造成
し、神からは限りない神霊の賜物を受けるのではないかと思います。

 私は神の実在と言うことについていろいろな方法で証明します。その中におい
て、一番、誰に対しても臆せず、自信を持って話得るのは、み言の帰納法的論理
と演繹的宇宙史を通しての“神は愛であった!”との弁明です。まさしくこれが
科学的、論理的、実証的ということだと思います。内的体験と外的理論、若き時
代、20年代は、小生はまさに気違いの如く伝道しました。30年代から、徹底した
社会奉仕、いつの間にか、40、50はおろか、60を迎えようとしています。今後
“我、如何に行くべきか?” 地上の人生の黄昏をどう締め括るか、考えさせら
れる咋今であります。       
                   1964年『成約の鐘』

参考:「この宇宙的な力は愛だ」  A.アインシュタイン
    「量子テレポーテイション」  古澤 明