「我らが願うその国へ行かん」(骨子)

 そういう者は国家のためにではなく自分の家庭のために働く。
その必要のない者は自分のために働く。という結果になってし
まっているから、結局善なる世界は絶対出来ない。そういう思
想圏内にある者は裁きの圏内にあることを否定できない。これ
らをみんなおしのけて、新しい世界救済運動というのが統一協
会の使命である。

 そういう立場からすれば世界中泥棒の国である。いつわりの
国である。だから、こういう国より聖なる国を望む。それが本
来の人間の姿であるというのです。「我等が願うその国へ行か
ん」と、その国は今のこの国じゃありませんよ。民主主義でも
なく、共産主義でもなく、日本の国粋主義でもない。

 今まで歴史において、なぜ善なる世界が、善なる希望目的の世
界が現われなかったというと、それは皆が国家の冠の中に入っ
てしまった。家庭の雨傘の中に皆入ったようなものだ。日本の富
士山は雨傘の形みたいだね。だから、日本人はその特色を出しな
がら富士山の下へもぐり込んではいけないよ。日本に来れば、日
本の人は見えないけれど、富士山は見える。それではいけないん
だね。我々は富士山を反対にして引っ張っていかなければならな
い。人は今みんなどこへ行ってしまったか。自分の冠の中に、主
義主張の冠の中に入ってしまった。共産主義も一方的にその笠の
下に集めようとして世界的に何とかかんとか今、唱えているんだ。

 自分よりも、善なる家庭を願い、善なるその家庭よりも、善な
る氏族の環境を願い、その氏族を犠牲にしても、民族的環境を
願い、民族的善を犠牲にしても、国家的善に立ち、それを犠牲
にしても、世界的善なる環境、というように進み、それを犠牲
にして、天宙的善なる環境を迎える。これが天の法則なんです。
自分が善なる立場に立つにはこの肉心を犠牲にしなければなら
ない肉心よりも良心は大きい。だから神は世界を救わんがため
に、一つの国家を犠牲にしなければならない立場になったとい
う結論になるんです。

 メシアを迎えた場合に、その国家を犠牲にして、世界のために
奉仕せねばならない過程が残っている。彼らが建設の指導権を握っ
て先立って犠牲にならなければ天国は世界的に造れない。それ
を民族自体が忘れた場合にはイスラエル民族も亡びる時がくる。

 涙と汗と血をもって奉仕して、彼らを自分達以上に繁栄させ、
彼らが喜ぶのをみて、笑いながら死んでゆこう。これが神の心
情である。親のゆく道である。世界的“親国家”になろういと
いうのだね

 イエス様の偉いところはどこかというと、臨終の時にあっても、
自分の敵であるローマ兵に対して、彼らの罪を許して下さいと
祈った。

 だから要は、問題どこに帰すかというと、自分の親よりも、
自分の子供よりも、自分の家庭よりも、自分の民族よりも、自
分の国家よりも、理想の国を愛せよ、というんだね。

            1967.7.2
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我らが願うその国へ行かん
196772日(聖日) 聖書拝読:マタイ伝62534 渋谷区松濤教会


 世界に住んでいる誰もが、善なる望みを持つと善の方に、もっと尊いところに進みゆこうという願いをもって、
毎日の生活を励んでいるのです。こういうような生活を今において為すばかりでなく、これは歴史を通じて、
今までのいかなる人間も、この望みをもち、この望みのために一生涯をかけていかなかったものはないと
いっていっても過言ではないのであります。歴史過程におきましてもそういう望みをもち、現実におきましても、
またそういう望みをもっていると同時に、今後我々の子孫による永遠なる歴史上におきましても、生まれてくる
すべての人々が、また望まなければならない問題であるのです。歴史に現われてきた、あらゆる聖人義人たち、
或いは哲人、或いは数多くの宗教を指導した教祖達の願いも、みなこの目的をいかに全体化するかという問題を
中心としていたことは事実なのであります。

 しかし、それに対して、まだこうだといって解決した人はひとりも居ないのです。その問題の中心点は、いずこに
ありやというとそれは世界ではありません。日本国家でもありません。社会にある一団体でもありません。つまる
ところ自分にある、という事を我々は考えなければなりません。自分が外的環境をいくら批判しても、自分自身が
善の絶対基準に立って、あらゆる望み得る目的基準に対して中心となり得る、その主体をもってこそ、相対的な
べてを批判する立場に立つことが出来るのであるけれども、そういう立場に立っていないものとして、何を批判しても、
すればする程罪の条件となって現われやすいのです。天国は外的環境でつくられるのではありません。内的に天国
たる喜びの基準を決定し得る立場にたって、外的環境的天国は成し得るのです。
 すべての人々は自分の方針でやるとか、自分がすべてを主管しようとか、自分を中心として外的環境を求め
るものなのであります。しかし、自分が完全なる自分自身になっていない以上は、求める環境も、また外の善を
求めなければならないということになるのです。だからこの事から考えても、自分というものがいかに重大な問題で
あるか、ということをもう一度分析し直さなければなりません。イエス様はいわれました。自分の生命をなくしてこの
天宙を得ても何の益あらんやと。だから自分は天宙以上の、高き、広き深き人格者とならなければ天宙を主管する
ことは絶対できません。いかに善なる目的の世界を望んでも、その望みを遂行し得るもとの力となる自分が確固たる
基盤に立って心身共一体となった基準にたたずしては、その願う目的をかなえることは絶対出来ません。自分自身が
外的世界に対して望むのであるけれど、内心ではいつもそれに反対しているという問題に、ひっかかっていてはなり
ません。外側より進み得る道と、内側より進み得る道が、ひとつにならなければならない。原因たる自分自身におき
ましてひとつになっていないものが結果においてひとつになるということは絶対にあり得ません。
 だから問題は内的基準におきまして、一体化せしむることが何よりも重大であるということはいうまでもありません。
宗教はこういう歴史的望みを全うしようという責任をもって、誰よりも先がけて闘ってきました。宗教のとり扱う問題は、
心を中心として、良心を中心として、もっとつきつめていえば本心を中心として求めています。我々人間におきましては、
弱きものであることを自分自身否定することが出来ない。現実におきまして、ある目的観念にむかって心身共に進む
という基準がたっていないから、生活の環境にわずらわされている。宗教としては、こういう環境をおしのけて、本心の
基準を通過して、もっと深いところへ入ろうと思うときそこにおいて我弱きたるを認める。それによって、その本心の基
たる何かの存在が、自分の良心を通して、外的世界に向っているという心の作用の方向を認めて、その奥に何かの
存在があらざるを得ないということを認める。その良心作用を思うときに、その良心たるものが、自分より始まって
いるんじゃなくして、いかに思っても自分は中間過程、いわゆる通過物の位置にあることを思うときに、それを通過
させる主体がなければならない。
その主体を中心として求めようとするのが宗教であります。 だから宗教は人間を中心とするのではなく神を
最も重要視する、ある存在自体を重要視するのではなくして、それ以前の、その存在のもとなる、目的を願う、
そのものを中心として問題化せざるを得ない立場にたっているのであります。良心とは、神の希望によって
神の絶対的目的をかなえる、成そうとする、成さなければならない目的に対しての、通過基準としてあるの
が良心であるというのですね。宗教は、神と、それから良心よりももっと深い本心を中心として問題にしている。
本心によっての新しい希望、新しい生命力新しい人生の価値、そのものが神との人間関係になります。
 神に目的があれば、目的に向って進まなければならない使命がある。その使命を神自身は出来ない。そこ
において人間が必要なのです。神の目的は何か、善なる世界である。この宇宙がひとつの心情を中心として、
神を中心として同じ家庭になることを目的とする。だから、人間の望みがある前に、神の望みがなければならない。
人間の事情がある前に、神の事情がなければならない。希望と事情は人間より始まったものではなく神から始まっ
たものでなければならない。我々は神の願う望みとひとつになって、我は通過物として目的に向かう願いが立って
おるにもかかわらず、その願いを願いとしてたち得ず、目的に向かう方向を持たずしていくら願っても、それは果たし
得ない。
 また、人は皆に歓迎され、宇宙のすべての存在より讃えられたい。また愛したい、愛されたい。それを思うので
あります。れは本心の願いです。その愛たる自分より始まったものではありません。だから自分のもののように使う
者はどろぼうである。いくら
自分が好むように愛していっても、それを通して人間本来の望みの世界、善なる目的完成の世界や宇宙は生まれて
来ません。しかし愛情なくしては、平和も幸福もない。あらゆる人間理想の要点として、愛情はなにより必要だ。だから、
自分から始まった希望は世界的になり得やしない。自分始まった事情は世界的事情にならない。自分から始まった
事情にならない。自分から始まった愛情は世界的愛情にならない。その希望であるべき本来の指針がある。その事情
であるべき本来の主旨がある。愛情であるべき本来の主人がある。そのものを自分のものとしている者は皆どろぼうで
ある。それは罰せられなければならないものである。そういう立場に立っているのが現世の人間、人類である。いくら
でかいことをいってもみんな泥棒である。だから、そういう人達が住んでおる世界だから、この世界は罪の世界である。
そうなるでしょう。だから終末期には天の審きがあるという言葉も、歴史的に証明せざるを得ない尊い結論の言葉である。
 そういう立場からすれば世界中泥棒の国である。いつわりの国である。だから、こういう国より聖なる国を望む。それが
本来の人間の姿であるというのです。「我等が願うその国へ行かん」と、その国は今のこの国じゃありませんよ。
民主主義でもなく、共産主義でもなく、日本の国粋主義でもない。じゃあ、そういうふうに考えると、ああわかりました。
さあ、行こう行こう。その方法、その行き方を教えるのが統一協会です。それを先頭に立って開拓しながら、正しい道を
開いてやろうというのが統一協会の使命であり、統一協会を指導する先生の生涯の目標である。

 そこにおける問題は簡単であります。三つにつきる。その一つは希望、二つは事情、三つは心情の問題になっちゃう
んです。人間が理想を願うにおきまして、その目的完遂のために絶対必要な要件である。その目的に向かうことが出来
ないだから心情問題になる。その目的を生活圏内において測らずには成し得ない。だから事情問題になる。希望たる
ものが我々と離れた関係をもっていては絶対出来ない。絶対離れることが出来ない関係にある。という基準にあるから、
絶対完成し得る時は善になっちゃう。
 今まであり、神を通しての願いではありませんでした。それを統一協会におきましては、その中に潜んでいる神よりの
心情を、現実における我々の感覚により体得し、そこから、新しい希望と新しい事情、新しい心情の自分を発見せよ。
それが出発の基準であります。だから自分の本心よりわき上る願いにより、本来の望みを全うしている生活過程は、
自由の条件となっている事情であり、それを事情として、一日ばかりでない、千年でも万年でもその目的が引き続くと
いうとそれ以上に、これを越えてあまりある愛情的基準がなくては絶対完成されない。そういう基準を現在我々におき
ましては、新しい方面から皆んなに体験させようというのです。それが統一協会に入れば第一になす重要な、自分ひと
りの問題であり、また歴史的問題であり、世界的問題であります。
 だから、統一協会へ入れば目的観念がはっきりしてくる。その目的に対しての心情的、事情的関係において、いつも
主体性を求める単に空想的論証ではなく、実際に我々の感覚器官を通しての意識感情を凌駕し得る基準におきまして
体験せられるというならば、これは宇宙的問題になるのです。これがあれば天地は治まる。これがあれば宇宙革命は
一時に成せる。これがあれば万民は成功の境地に立つ。
これがあれば世界は一つにならざるを得ない。それこそ統一ですね。統一の「統」の字は何かというと、みんな治めて
指導するという意味ですね。引き連れ、引っ張って一つに為させる、ひとりでなってくれるというのじゃないですよ。それが
統一の意義であります。
 そこにちょっと考えなきゃならない。統一神霊がなくてはそれが出来ないというのだな。「世界基督教統一神霊協会」
なんだか、えらく長い。実に長い。先生でも時たま忘れる事があるんだね。世界統一協会だというのに神霊というややこ
しいものが、突き出ている。しかし、これはそうでなければいけない。それが新しい世界の源動力だ。それに接すれば
小さいものがあまりにも大きくなって「ああ、これ以上大きくなったら困ります。」といいます。こういう事がこの世の中に
ありますか。あるのですよ。普通の堕落した泥棒の世界におきましては、王様になっても、それで満足かといってみると、
「ああ、まだ望みがある。」というのがこの世の中の望みだけど、心霊基準の過程におきましては、これ以上幸福に
させると「ああ、たまりません。これ以上の事は望みません。」と反対になるのですよ。どんどん上げてやろうとすると
どんどん下がっていく。反対の現象界が現われてくる。だから、いかに小さくてもいかなる価値より以上の価値を認め
る基準になるよ。そうなれば人間が宇宙にいても、自身の生命を得るのがもっとも尊い。イエス様の言葉がそこで通じ
るというのだね。そういう世界が有りますよ。無い」とする者があったら、まだ無知なる立場に立っている。

 共産党においては、神なんかあるものか、現実社会における幸福と地上天国第一主義、それは実にもっともらしい
のだが、らしいには危いところがある。それじゃいけない。統一協会におきまして共産党になる者は一人も居ないで
しょう。あり得ません。人間は自分で自分の細胞を知らないんですよ。生理学的、医学的にいうと四百兆余りにみんな
挨拶して君達は会ってみたの。感覚によって「これ細胞。君は
私か。」と言えないだろう。しかしあらゆる触感を連絡する因縁の関係を成さしめている継ぎ物であるという事を思う時に、
ああ、細胞はあるに違いないと、そう信じるんだよ。そうだろう、君達は細胞の分子とか、原子とか陽子とかいうのだけれど、
それを見たことがありますか。それを主張した人もわからない。ただ関係を通してわかるというんですね。
 すると現代文明は見えるものから始まったのではなく、見えないものから始まっている。そこから出発して、神がいるか、
見せてみせてくれ。いくらたねてもぼやける。しかし、関係を通して否定出来ない。統一協会に入ればそれは神経作用だ。
本心による本来の望みにかなう感覚性、その感覚性を肉身のいわゆる神経系統を通して脳細胞にきざみこまれる。そう
すると意識が生じてくる。だから現実、生活圏内に感覚内にいわゆる意識圏内において神の存在を認めなければなら
ない時代に入って来た。それを統一協会は、何げなしにやることが出来る。だから世界は統一されるというのです。

 今までの人間は、自分が問題だということは前に言いましたね。自分がいかに尊いもののように考えてきたのが
間違いなんです。どうせ泥棒の環境を正しながら進まなければならない立場に立っている。正すにはその世界や
、国家や、氏族や、家庭や、自分の妻や、子供や、自分自身まで、清算してしまわなければならない。そういうもの
につながっている母体はどこにあるか。肉身を中心としてつながっている世界ある。それに関係するすべての宇宙で
ある。それをなんとしても切ってしまえ。善なる世界に向う男たるものに対して反するものがあれば、ひと思いにやってしまう。
 そういう事に対してこの世の中には錨のようなものがあり、これが問題だ。歴史をあらゆる先祖達を義人、聖人を、
あらゆる宗教界を、宗教生活そのものを、この錨でもって奪いひっぱって行こうとする力がいつも続けて働きかける。
これを誰が切ってしまうか。人間の力では不可能である。人間はこういうふうに拘束されている。これを誰が解放して
くれるか。重大な問題である。そういう立場に立っているから、人間は「ああ我を救って下さい。」といつも嘆く心がある。
この問題を解決してこの錨を切ってしまい、解放の、最終的な喜びを迎えるようにするのが神の摂理である。その目的
のために来られる方がキリスト教におきましては、再臨の主であり、仏教におきましては上行菩薩です。

 あらゆる上級の宗教におきましては、再臨思想を残している。それは、みんな別な方のように考えるんだけれども、
その目的たるお方はひとりである。東の方において見たか、西の方において見たか、それを見る方法、方向によって、
ひとつのものを表現した基準が違うんであって、そのもの自体に違いはない。みんな同じである。
 違うのは錨を解放してくれるというその目的を世界に完遂する文化圏が違うのである。歴史的背景が違うのである。
ある民族を指導するには、それに近寄った方法、宗教的方法を通して行かなければならない。だから結果におきまして
は異なった結果になってしまう。しかし異なったようにみえるその方達がみんな再臨思想に関わりあうお方である。その
方達が、みんなわからないようにみえるけど、結局言ってみればひとりのお方である。だから、世の中に救世主が来な
ければならない結論になっているんですよ。もしも君達にそれが出来るとしたら、君達よりも偉い歴史上の聖人達が
やったはずでしょう。聖人達もそれを出来なかったんだ。聖人達が願うところの救世主が来なければならない。これが
救世主、メシヤの思想だね。こういうと、ああそれは間違いないと思うでしょう。
 だけど、その方法を必要とするのは先生だけですか。君達ばかりですか。それとも万民ですか。そう万民が必要である。
ここには親父も女も男も、誰も彼も必要である。この世にこの事を起こしてくれるんだから、神はそれこそ愛である。全ては
この事から出発する。それがメシヤ思想である。ではこの方が来るのに、何を持って来ますか。その方は新しい希望を
持ってきます。新しい生活の事情を持ってきます。新しい愛情をもってきます。この三つを持ってくるのです。それは前に
も申しました通りに本心が実にもともとから願い求めてきたものを持ってきます。それを持って来て今までの希望より以上
の希望を体験させ得る、それを持って来るんだから、今までより以上の事情を体験させ得る。より以上の心情圏を体験

させ得る。今までそういうものには、比べることが出来ないような内容を持って来られる。

 君達におきましては良心と肉心が闘っているでしょう。悪い人というのは良心より肉の作用が強いものをいうのですよ。
たとえば良心も愛もない動物みたいに、食べたいから食ったらいい。万民をいかに苦労させても自分ひとりでかいことを
やったら良い、とこういうのは良心に反した立場にあるもので悪である。肉心と良心の関係から考えてみて、最も悪という
ものは、肉心のままに行なうものである。だから良心に呵責をうけながらそれに左右される人こそ善なる者である。そういう
立場に立っている者は誰よりも苦痛を感ずるものである。だから善なる宗教生活をしようとすれば、苦痛の段階を越えざる
を得ないというのですね。だから現在の人間は良心作用より肉心の作用が強い。結論はそうだ。こういう人間に対しても来る
べきお方が来られるならばどういうふうになるかというと、良心の作用が仮りに今の比例からみれば七対三だとすると、良心
はいつも負ける。反対に肉心の作用より良心の作用が百対七になったらどうなるか、それはみんながよく知っている。つまり
肉心の作用の力より、内的に力をプラスさせて、良心作用をせしめる。そうなると爆発するほどのはけ口を願うと、ノコノコ
動き出した、この肉心はその密度で被爆して破裂する。そうして肉心は良心に完全に占領されるだろう。こういう作用さえ
あれば天下統一は何も、難しいことではない。だからその方がこういう心的高圧圏を作用させる力を持って来られればよい。
問題解決は簡単である。

 果してそれがなし得るといったならば世界は統一される。ではそれはどのくらい強ければいいか、この世界を一口で噛み
潰してしまうという、力強い自分の肉身を通して、われ知らず、善い行ないをしたということになれば世界は自然に大事に
なるだろう。それは圧力によって、肉心に作用させたんだけれど肉心は何をやったのか分らない。なぜなら、肉心自身の
感覚圏以上の力で作用したんだから、その圏内にある肉身によっては体験し得ない。われ知らずしてやってしまう良心的
行動である。そういう現象が起こるようになったらこれは素晴らしいもんだよ。そういうことが話ばかりじゃなくて、そういう
現象がおこる可能性は充分ある。もしもそういう立場に立ったらどうなるかというと全部否定する。全部を否定出来なけれ
ば、錨を自分から取り外すことは出来ない。だから宗教は否定から始まる結果になるんだね。

 新しくこの地上に、全世界の万民が求め、そして最後に世界をひとつになし得る宗教のあるものが現われるならば、
宗教としては一時に全部を否定することが可能なる力をもっている人達でなければならない結果になるのだね。

 最初に言ったんだけれど、世の中では誰もが善を望むというでしょう。善というものを思う時に、自分を中心にして
みんな引き付ける。そういう人を善なる人というか、それとも反対に自分のものを引き分ける者を善というか。世々の
立場に立つものに善なるものはひとつもない。つまり自分から与えるもの、善の規定はそこから始まる。君達ははっき
り知らなければならない。君達の生涯において一生涯を通して、天国へ行けるか、地獄へ行くか何をもってそれを規定
することが出来るか。それは生涯を通して相対圏に対しいかに与えながら生活したか、それとも自分を中心として、
誰れかを犠牲にしても意にかいしない、いっぱい貰いながら生活したか、と言うその二つによって決定される。善人と
いえば自分を犠牲にして、大なる環境に自分を勝利させたものを言い、悪なるものは大多数を犠牲にして、自分を益の
立場に立たせたものを悪という。

 善悪の規定をはっきり知らなければならない。たとえば、おやじが自分の子供に対して「食え、食え、食え、お前が
願わなくてもわしはお前を愛さざるを得ない。みんなお前にやる、やる、やる。」これが善ですか。与えるものが善だ
といっても、おやじが自分の子供に対して与えるものは自然現象であって、善の規定には何のかかわりもない。自然
において動物だってそれをやる。自分の家庭に対してやるものも動物だってそれをやる。だから、自分の国のために
忠誠をつくすと言うことも、国家的善の基準の規定からみれば、自然現象ということになる。
 だから善とは何か。自分の近くに属しているものを無視して、それより以上のもののために、これをみんな捧げ、犠牲
にするのが善である。それは否定出来ない、それをはっきり知らなければならない。だから今までの歴史上の聖人達は、
自分の国に属しながら自分の国のために自分の理想を語ったのじゃありません。世界万民を眺めながら、自分の国家を
先立たせて、捧げ物にさせようとして語ったのです。捧げ物にさせたら捧げ物として終ってしまうかというとそうではあり
ません。捧げ物となって勝利を得た場合にはそのために自分達みんなが幸福になったのだから、みんなが、幸福になら
せてくれたものに頭を下げる。これが善の原則である。

 聖書は言っておりますよ。何を食うか。何を着るか、何を飲むかと思いわずらうな。それらはみんな異邦人の願うもの
であると。この世と共に滅びる者としての願いは善なる目的となんの関係もない。そういうふうに考えれば、世界的、
宇宙的善が現われなければならない。自分よりも、善なる家庭を願い、善なるその家庭よりも、善なる氏族の環境を願い、
その氏族を犠牲にしても、民族的環境を願い、民族的善を犠牲にしても、国家的善に立ち、それを犠牲にしても、世界的
善なる環境、というように進み、それを犠牲にして、天宙的善なる環境を迎える。これが天の法則なんです。自分が善
なる立場に立つにはこの肉心を犠牲にしなければならない肉心よりも良心は大きいんである。だから神は世界を救わん
がために、一つの国家を犠牲にしなければならない立場になったという結論になるんです。霊界をも含めて、天上地上
共にこれを統一し、善なる天宙にならせるには、この世界を犠牲にしなければならない。こういう路程を通過しなければ、
最高善の理想世界は、天上天国、地上天国は、この地に実現されない。
 民主主義におきましては、自分中心、個人主義を第一にたてる結果になってしまった。そういう者達の国家に対する
観念は希薄である。国家観念の希薄な世界観念はもっと希薄である。そういう者達は、自分を家庭の中心として以上に
考えないんだね。そういう者は国家のためにではなく自分の家庭のために働く。その必要のない者は自分のために働く。
という結果になってしまっているから、結局善なる世界は絶対出来ない。そういう思想圏内にある者は裁きの圏内にある
ことを否定できない。これらをみんなおしのけて、新しい世界救済運動というのが統一協会の使命である。

 世界におきまして神の国は現われていない。神の人は現われていたけど神の家庭も氏族も認められなかった。民族も
認められなかった。イスラエルという選民を立たせて、個人、家庭、氏族、民族、国家の建設を願った。だから選民思想が
歴史上に現われた。イスラエル民族、ユダヤ民族ですね。これはすばらしいことである。彼らは今までずうっと、歴史過程を
通過しながら、二千年の間あらゆる民族に迫害されながら、ふみつけられながら、自分を犠牲にしても、自分達の民族性、
神より受継いだ民族性を失なってはいけないという思想をもって今でも世界に広がっているんだね。だからみんな彼らを
好まない。普通の者だったらその環境にすぐ影響される。しかし彼らは影響されない。彼らの願うのは長い歴史の基準を
通過しながら求めてきた望みの国である。この地上に一片の地ももっていない神、この地上の万民の前に立たして褒めた
たえられるような個人、家庭、氏族、民族、国家をもっていない、かわいそうな神、その神の前に、神の国家として立たせ
ようと神は我らを選ばれたんだからその目的を完成させなけりゃならないという使命感をもっている民族、その神に祝福
された民族、その神に祝福された民族路程を絶対的基準によって信仰する民族、そういう民族が世の中に残っていると
いうことは幸なことだね。しかし、彼らが、そうしてメシアを迎える時、もし自分の民族を中心としてメシアを迎えたとしたら、
そして来られるメシアはわがユダヤ国家のためであるとした瞬間から、その国家は亡びるよ。メシアを迎えないことが問題
じゃない。メシアを迎えた場合に、その国家を犠牲にして、世界のために奉仕せねばならない過程が残っている。彼らが
建設の指導権を握って先立って犠牲にならなければ天国は世界的に造れない。それを民族自体が忘れた場合には
イスラエル民族も亡びる時がくる。

 我々は全日本一億の人民を救わんがためにたった。日本のこの島国は東洋、アジアの防波堤のような国であり、
太平洋の波濤が打ちよせても、これを防ぎきるような力強い日本の国家でなければならない。神がアジアの防波堤
として立派な港を造ろうとしている。それならば防波堤の使命を完遂しよう。じゃ、この部分だけはそれを成し、ある
部分は出来ないといったら、その防波堤は全部崩壊する。くつがえされてしまう。波に引き寄せられるんだね。特に
この日本におきましては、共産主義、民主主義、帝国主義――一体どこへ行くか。これなら問題ないというガンとした
防波堤を築いているかというとそうじゃない。対世界的台風がまだ吹き荒れていないからこそ幸である。もしも、それが
吹き荒れて来たら問題である。日本は思想的にみれば日本精神なんだ。昔は武士道で、刀一本持ったなら、さからう
ものは切ってしまって解決出来た。けれど今はそうはいかない。ある思想圏に引き込まれると、現実のその事情を防ぎ
得るものがない。共産主義、民主主義、帝国主義、そのほか、いかなる方法でもって日本精神を発揮させるべきか。
こういう危機において必要なものを、民主主義を越えて、共産主義を越えて、帝国主義を越えて求めなければならない。
そういうものがあったら、民主主義も、共産主義も、帝国主義も犠牲にして越えて行くのが正義である。善の定義によって
の正義である。だから日本を救おうとする統一教会の人達は、日本を救おうとするのが最後の目的じゃない。目的を為さ
んがための過程であって結論的目的じゃない。日本を救ってからは、日本一億人民を、世界の波の中に引き込んで、
この太平洋を越えなければならない。だから日本を神が求めている。

 今の教育、民主主義の教育方針は、一国の主義を持って教育するんじゃない。世界的に文化交流して、あらゆる生活
圏内において世界のよいものを取り入れるようになっている。だから世界的にならざるを得ない。結果的には世界的に
なる。昔は日本と西洋といえば封建時代、鎖国時代は全然交流を許されなかったんだね。それではいけない。今、世界
は三十分以内に何でも通ずる時代になっている。ここで話をすれば、三十分以内に世界の電波にのる。世界的人物が
現われたら、すぐ世界的になれる。実にすばらしい時代に入っている。そういう時代にあって、我は日本第一主義といっても、
そうはいかない。世界主義的立場に立って、我は日本第一主義といっても、そうはいかない。世界主義的立場に立って、
万民共に自分の民族性を超越して、各自の国家圏以上の価値を認めるような国際的主義をもって指導しなければならない。
我々統一協会は何を願うか。日本を願うんじゃありません。日本を必要とするのは日本自体を迎えて楽しむためではあり
ません。日本を前に立たせて世界を救うため、戦うためです。神の戦法は、人の腹を日本刀でもってつき通すことではない。
首を切ってしまうことではない。

 涙と汗と血をもって奉仕して、彼らを自分達以上に繁栄させ、彼らが喜ぶのをみて、笑いながら死んでゆこう。これが
神の心情である。親のゆく道である。世界的親国家になろういというのだね。日本国民は世界万民を自分の子供の
ように考えて、すべての可哀想な国家国民に対して我々のすべての幸福、すべての文明の恵沢をみんな渡してやる。
それで自分達は、はだかになって、それを眺めながら喜んで死んでいこうという国民になったら、この日本を通して世界
統一は必ず成る。考えてみなさい、そういうこと今までにありましたか。ないんだね。だから、問題の起点はここに集まる。

 だから、日本的日本は願っていない。世界的でもなくて、それより大きい天宙的。世界的の兄貴分の言葉が現われた。
それがあるから世界を眺めながら喜ぶんだ。もし世界が基準だったら、世界の果てまで行ったどうするの? だから我々
にはもっとでかい言葉が必要なんだ。それが天宙。それは素晴らしい先生の造った言葉だけれど、内容においては先生の
ものではありません。だからその言葉を造った人に対して感謝しなければいけないが、永遠の感謝は先生にしちゃいけない。
より以上のもの、神にしなければならない。

 イエス様の偉いところはどこかというと、臨終の時にあっても、自分の敵であるローマ兵に対して、彼らの罪を許して下さい
と祈った。この地上に来たのは我個人の望みの故ではない。天宙、万民に存在する目的完成のために、或いはあらゆる
被造物のために、自分の、万民の願いの限界にたって来た。そこが素晴らしいんだ。イエス様は十字架の峠を越えて行った
んだけれど、一人で行ったんではない。万民の前に立ってだ万民の望みを総合し、神の望みを総合した立場でもって命を
かけて進んでいった。そうして命をかけた最後の限界において勝利し、自分の死に対して神に頼る心より以上の責任観念を
もって神の御旨のためを願った。そうして人間代表として願ったのは、この罪の世界に属して嘆いている人間を神の手に
授けることであり、また、そういう神の立場の心情をもって、十字架上で彼らを許して下さいと祈ったその祈りは、天下の
誰にも出来なかった尊いことであったのです。流した血は自分一人のためではなく、万民のためであるよう祈り、すべての
心情感覚は一個人の人のためではない。それが天地を感動せしめ、神の心情を湧かせる。地上においてその基準を造る
ことは、他のいかなる宗教もできなかった。その問題をなし得たというところに、キリスト教の尊い人格性があるということを
忘れてはならない。

 その立場に立ったイエス様は何を考えたでしょう。まず第一に考えたに違いないよ。神を中心にした天宙を考える。
天宙を考えたから天宙が願う国を考えた。その国を願わざるを得ない。その国はイスラエル民族を中心とした一国家
ではない。世界を中心としてのイスラエル民族、その時代のイスラエル民族ではなく、神を中心とした万民共通の心情界
を共にする国家を願った。神を願い、天宙を願い、世界を願った。それから、非常にみじめな民族であれば、その民族
に対して祈ってやった。敵であるもののために祈ってやった。最高から最下、あらゆる部分に関係を持ちつつ、共に
この峠を越えようという尊い精神でもって十字架につけられたのだからこそ、それが心情において歴史性の本心の
境地に通じ、神の願いの心情の境地に通じ、過去の願いの心情の境地に通じ、過去、現在、未来のあらゆる人間
として願う心情の核心を通過し得る。この心情圏内において、この心情を統率する頂点でもって死をかけて勝利し
得たんだから、復活の路程により、この世の中は、新しい世界への分解点を出発させ得た。そこにもキリスト教の
尊い、いかなる宗教よりも尊い精神がある。そういう心情を中心とした基準によっても、イエスはメシヤに違いない。
だから、神を願い、天宙を願い、それから善なる立場にある一番可哀そうな国家を中心として願い、あるいは敵の
国家に救いの手を願い、それから自分の弟子達を思い、それから自分の家庭を思い、それから自分の親を思い、
それから自分の兄弟を思い、それから自分というものを考えようとする主義がイエス様の主義である。だから万民
いかなる民族でもその足もとにひざまづかさざるを得ない。だからこの目的完遂のために本来ならば自分の父母と
共にやらなければならない。しかしイエス様はマリヤに対してこう言ったことがある。「あなたは、私と何の関係あらんや。」
これは歴史的なユダヤ民族の風習がそうだったのではないですよ。そんなことはイエス様のみ心を知らない立場で
いう言葉である。こういう天宙的な観点から見れば、それはあたり前である。

 今まで歴史において、なぜ善なる世界が、善なる希望目的の世界が現われなかったというと、それは皆が国家の冠の
中に入ってしまった。それとも民族の笠の下に入ってしまった。家庭の雨傘の中に皆入ったようなものだ。日本の富士山
は雨傘の形みたいだね。だから、日本人はその特色を出しながら富士山の下へもぐり込んではいけないよ。日本に来
れば、日本の人は見えないけれど、富士山は見える。それではいけないんだね。我々は富士山を反対にして引っ張って
行かなければならない。人は今みんなどこへ行ってしまったか。自分の冠の中に、主義主張の冠の中に入ってしまった。
共産主義も一方的にその笠の下に集めようとして世界的に何とかとかかんとか今唱えているんだ。

 だから要は、問題どこに帰すかというと、自分の親よりも、自分の子供よりも、自分の家庭よりも、自分の民族よりも、
自分の国家よりも、理想の国を愛せよ、というんだね。ここにおいて愛するには何が問題か、心情が問題である。
今までの心情の根源をさぐってみると、堕落心情圏から出発したものである。その心情圏以上の心情がこの地上に
現われない以上はこの世界は一つになれない。今までの歴史もそういうことをやってきてできなかったんだからまだ
まだ出来ない。今までの世界につながっている心情の根源は引きぬいて、新しい心情の根源を植えつけよ。それが
統一協会の使命である。今まで愛し合って離れることのできないという夫婦でも、統一思想を通過すれば、その目的を
共にしない限り一人は北極、一人は南極になってしまう。そういう現象が即時に起り得る力がなければ統一の世界は
成し得ない。日本がいくら強固なる国力を中心とした国民性、民族性をもっているとしても、統一原則に出合った場合
には、それが、いつの間に崩れなかったかわからない程強固な力で、以前の民族世界は崩れ、より以上の愛に向って、
日本をひっぱって世界に行き出す。そういう心情が即時になし得られるならば、それこそ天宙復帰問題ありませんよ。
君達の心の世界にそういう革命が起こりましたか。

 君達は今から地方に行かなければならない。わかっておれば当然のことであるが、何も知らなくても行かなければ
ならない運命を辿っている。すべての歴史の要求は我らを背後から追い立てる。前では神が呼びかける。こういう
限界に立っている。前後左右上下共にどうすることも出来ない運命になっているのが我々統一協会である。だから
北海道の北端におる者は九州の南端を何遍も廻れ。九州の南端の者は北海道の北端を何回も廻り、日本のあら
ゆる地は、我が足の踏まざるところなし、というぐらいの精神をもって日本を踏んで行かなければならない。
 先生はそういう路程を今までずうっとやってきた。今も、行かなければならない。行く道は遠いにもかかわらず急が
なければならない。その急がしい心は、天の心情を知れば知る程、いかに急がしいか表現できない程である。君達と
しても、日本におけるその使命を全うすると同時に、先生の行かれる道を、神が感動するようなつながりを、因縁を保ち
つつ共に行こう。そうして先生と君達、君達同志の四方八方へ広がるつながりと慰めと寄り合う力、こういう関係を先生が
見て感動し涙ぐむような環境を造っていくならば日本復帰は問題ではない。

 それをするにはこの国を何よりも愛さなくてはならない。この国を何よりも慕わなければならない。この国のために誰
よりも血を流して戦わなければならない。その環境がどうであろうとも、我々はそれを乗り越えて行かなければならない。
ある時には社会から、ある時には家庭からそむかれる時があるでしょう。しかし、そういう変化、そういう環境によって
我々は変化しない。月日が一年二年十年も過ぎれば、良心的な人々は長い間注目しながら批判してみた結果、この
方法この道でなければ、日本は、世界は救われないという現実を体験するようになる。その後には何年続くか、それが
君達の五%の蕩減の使命である。それを全うせんがために、荒波が打ち寄せる中に乗り出す。そこでその舟が目的
を失なってしまったらそれこそおしまいである。その怒濤を目的に向って乗り越えて行くだけの船頭となれば、この道は行ける。

 日本を本当に愛せよ。今まで愛するというのは、その時になっても越えられない、ある限界内においての心情であった。
それではいけない。いかなることがあってもつきることのない心情圏を中心として愛する立場に立つ使命を持っている男、
女が神の願うものである。そういうもの達は心情的革命がなされているというんだね。今まで家庭内において、あらゆる
心情の基準があったが、神の心情の基準から見れば全然問題じゃない。それでは新しい世界は造れないんです。今まで
でも、今までの心情を中心として善を慕い求めてきて、結局はこういう世界以上にはならなかった。だから、そういう心情を
中心とした方法、組織では、絶対に新しい世界は造り得ない。これ以上の基準に立って、これをみんな統轄し得る人格を
成す心情、そこから新しい世界が出発するんだね。アブラハムがイサクを供物にする時、その心情において親の心情
以上の心情をもって神について行った。だから神につながる事が出来た、神に接する事が出来た。そこから歴史は始
まるよ。いかなる状況におかれても、それ以上の心情的基準があれば、何物もそこに侵入し得ない。そういう自分を
いかなる時も確保していないならば、君達は我々が願う地上天国に入れない基準になるんです。

 その問題を中心にして、我はもう一度決意を新たにして、もう一度自分一人以上の立場を望まなければならない。
理想の国を造るためには、一人ではいけない。日本だけではいけない。国家的問題では0ない。アメリカ人もニグロも
黄色人種も共に手をつなぎ、親の膝の前に兄弟の心情をもって共に親の首にみんなまつわるような時代、親の懐に
一遍に抱かれるような時代、そういう時が来なければ理想世界はならない。そういう心情を持ち得る者、それ以上の
余りある心情を持ったと自覚する者、その者が、いわゆる我らが願うその国の国民であり、親孝行者である。