百鶴苑・鶴亀荘の紹介

伊豆・沼津紀行文・大脇 記  
伊豆創生プロジェクトとは? プロジェクト代表 八木秀雄
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 10月22日、777双総会での大脇の解説(10分間)


*2016年当初の宿泊料金は改定されいます。管理人にお問い合わせください。

百鶴苑(山)の紹介パンフレット *
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鶴亀荘(海)のパンフレット
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施設の紹介サイト

  内部用:伊豆創生プロジェクト
  
   外部用:伊豆創生プロジェクト
百鶴苑(山側)    静岡県伊豆市熊坂1257-345
(修善寺ニュータウン内) 〒410-2411
Tel&Fax:0558-99-9961

 百鶴の物語(百鶴苑の由来)100羽の鶴の群れは、長旅の疲れて落下する子鶴を救った!

    

 Access: 三島駅(伊豆箱根鉄道)から25分、大仁駅下車、百鶴苑まで車で約7分
      

   

 鶴亀荘の由来はこちら

 鶴亀荘(海側)  〒410-0223 静岡県沼津市内浦三津(みと)字大島537-19
Tel.:0559-41-3488、 Access: 三島駅(伊豆箱根鉄道)20分 、
伊豆長岡駅下車、車で約10分

又は、 伊豆長岡駅からバズ(三津シーパラダイス行き)約15分 ⇒ オキシーテック下車

解説)
「百鶴」は、元々川口記念館(セミナーハウス)を、後世に残したいとの私達夫婦と、当時の
学生達の強い願望が在りましたので、リフォーム見積もりが1億以上と高値でしたので、
これに代わる館としての位置付けなのです。いろいろと買い物などの不便さも在り、交通便や、
勤め先の確保、ホールや廊下、風呂場など、冬の寒さ対策など、まだ残された課題も多く
在りますが、私達にとっては、8軒目にやっと見つかって、先輩家庭にお勧めできる最後の切り札でした。

 百鶴から、無料高速道路を利用して車で16分と言う海辺にも、2年前の5月に買い取った小さな
4階建ての館、「鶴亀荘」が在ります。目的は同じく、地域と若者支援にもなる功労者の為の老後
のシェアハウスです。以前から覚悟を決めて、皆で、アパート代以下のローンを組んで、ある程度の
災害にも持ちこたえられる様な中古住宅を手に入れねば…と思い続けて居ました。

 東日本大震災の以前には、高くて手の出せなかった海沿いの物件が、若者達の、都会へと人
口流出の激しい近年、3分の1の値で売られるようになり、鶴亀荘もそうした物件の一つです。
来月、2つの館購入から1~2年が経ちますが、現時点での問題は、居住予定者がこちらに来て
も、良い収入の雇用が無いのが課題としてあります。塾も、過疎の進む漁村ですので、小遣いにも
ならない程度の収入しか見込めません。ただ、可能性が在るとすれば、純正学園の様な、不登校
の子らを教えると言った、時代のニーズに応ええられればどうか…と…。百鶴のオーナーの一人とな
って居て、海の方の館の1Fを使ってやらないかと打診しましたが、教職資格は在るけれど、今はあま
り乗り気ではありません。 たぶん、若い時と違って、確実に収入の得られる今は、こちらに移って
から収入が得られない場合に、戻れなくなる心配が在るのだと思います。主人は、給料は、5分の1
になって居ますが、息子らを教えながら、ダスキンの現場での仕事も在ります。

 この海山2つの館は、出会いから購入まで、クリスチャン繋がりです。
北大のクラーク博士の教え子たち、第1期、2期生らが、この地より天国化を…と始めた興農学
園が、第2次大戦中、キリスト教が敵国宗教とのレッテルを貼られてしまい、弾圧によって、使命
半ばで絶ち消えた為、この地でやり残した使命を継承して、私達に果たして欲しいとの願いが在る
様にも思います。実際、県からただも同然で借りている山の果樹園化などの計画も、若い学生
さんたちならば可能かも知れませんが…。        八木秀雄・七々子・記


[興農学園とは]

* 昭和初期た興農学園は、後に久連国民高等学校と称したことからわかる通り、デンマークの
国民高等学校(フォルケホイスコーレ)を模範とした、キリスト教主義に基づく 私立の農民道場で
した。太平洋戦争下に廃校となるまで、全国から多くの青年が集まり、勉学に励みました。なぜ、
このような学校がこの時期、この場所につくられたのか、またそこでの教育はどのようなものだっ
たのか、いかなる意義を有していたのか といったことを紹介します。

 興農学園は、昭和4年 (1929) 静岡県田方郡西浦村久連(現沼津市西浦久連)に設立され、
キリスト教主義に基づき農業教育を行った学校である。久連に農場を所有し ていた沼津兵学校
附属小学校・札幌農学校出身の実業家渡瀬寅次郎 (1859~1926) の 遺言により、内村鑑三・
新渡戸稲造ら渡瀬の旧友たちが協力者となり、遺族が資金を 出して設立・経営が行われた。
校長は、デンマーク通として知られた長野県出身の社会教育家平林広人 (1886~ 1986) 。
学校は、デンマークの国民高等学校(フォルケホイスコーレ)に範を取ったもので、共同生活
の中、青少年を対象に農民の実生活に即した教科・実習が指導された。

 昭和8年 (1933) 、興農学園は財団法人の名称となり、学校は久連国民高等学校と改称した。
二代目校長は栃木県出身の大谷英一 (1905~94) 。不況と資本主義発展の陰で苦しむ日本の
農村・農民にとって、デンマークは豊かな農業国の理想とされたが、興農学園にも知識・技術
のみならず「道」を求めて全国から生徒が集まった(卒業者200名以上)。柑橘栽培の研究、各
種講習会の開催などを通じて地元へも貢献、 地域に根づいていった。

 ところがアジア・太平洋戦争が進む中、国粋化を余儀無くされ、昭和17年 (1942) 農道塾と改称、
国策への協力のため併設した静岡県西浦農学校も翌年には廃止され、 事実上活動は停止した。

 敗戦後、大谷校長は去り、興農学園が教育機関として再興されることはなかった。 しかし、大谷
の跡を継いだ植物学者古里和夫により、昭和30年代まで柑橘の研究や渡 瀬寅次郎が輸入した
外来の珍しい樹木の保存・公開などがなされた。渡瀬寅次郎の遺志を継いで、昭和4年(1929)
に西浦久連に開放された興農学園では、デンマーク式のキリスト教主義に基づく農場教育が行わ
れ、その附属農場には、珍しい外国の樹木(コルク樫など)や花(エリカの花など)が植えられ、品種
改良も行われていました。

一般財団法人興農学園 沼津市西浦久連2番地
事業の概要 :農業に関する調査研究・農園の運営・社会福祉法人等の活動支援 ・人材育成事
業・農業を中心とした地域活性化事業 ・再生可能エネルギー事業

沼津市明治史料館 沼津市西熊堂372-1 Tel: 0559-23-3335 

興農学園: みかん村とデンマーク教育 』 

ミカン畑、ヨットハーバー、ダスキン支店、山林(一町歩)